2009年03月07日

溝口健二「武蔵野夫人」



田中絹代演じる武蔵野夫人が、家の名誉のためにわが身を犠牲にして自ら死を選ぶという溝口らしからぬテーマである。大岡昇平の有名な小説が原作で、映画化にあたっては福田恒存が脚本を書いたという。
しかし、そういうテーマとは関係なく、この映画の見所はやはり溝口が描き出す男と女の世界である。田中絹代-秋山道子と彼女よりはるかに若い片山明彦-宮地勉は、ひそかに思いを寄せ合っている。道子は、それを道徳上の観点から必死に抑える。
ある時、部屋で二人きりになって、ソファでお互いの横に座るのだが、勉の手が道子の体に意図せずに触れる。道子はピクッと反応するが何事もなかったように振舞おうとする、それが何度も繰り返され、道子は席を立つと画面奥の窓のところへ歩いていく。勉の表情は若い情熱と情欲を湛えている。いきなり外に雨が降る。道子は「もっと降ればいいのに」という。
雨の降り方もかなり不自然だし、こう文章にすると滑稽に感じるかもしれないが、映像では仮構でありながら現実よりも現実らしい男と女の風景が完璧に描きだされているのだ。理屈抜きの映像の力なのである。こういうのを撮らしたら、本当に溝口の右に出る人はいないだろう。
森雅之も山村聡も、本当に見事としか言いようがない。森は、田中に全く愛情を持っていない夫を性格俳優的なアクの強さで演じきっているし、山村は道楽家で内面性に欠ける事業家に成りきっている。例えば、山村が成瀬の「山の音」で演じた、息子の嫁の原節子を優しくいたわる役とは対極のキャラクターである。おかしいくらい別人に成りきっている。そういえば「山の音」の山村と原の抑圧されたエロティックな関係というのも、溝口とはまた違った成瀬の男と女の世界だった。
田中が自殺する覚悟を決めているのを映画を見ている人間が分かっている状況で、森が酔って家に帰ってくるシーンの撮り方も見事だ。見る者は、当然どういうシーンが出てくるのか予期できているのでハラハラする。森は泥酔していて、ガタガタとやかましく家の中を動き回る。家の中は静寂そのものである。色々な部屋に行くのだが、なかなか何も起こらない。そして、やっと田中の寝室に辿り着き・・。というのは、やはり映画でないと出来ない表現である。
森が人妻の轟夕起子に言い寄ろうとして、甘く見るんじゃないわよと、突き飛ばされて吹っ飛ぶシーンがおかしい。片山明彦もヤケになって、女性を押したおそうとして、安い女と思うんじゃないわよと、やはり吹っ飛ばされる。
溝口はそういうシーンが好きだったのではないだろうか。この映画のテーマなどよりも、そういうところがよほど溝口らしい。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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