2009年03月06日

小林秀雄と正宗白鳥の論争―思想と実生活をめぐって

小林秀雄と正宗白鳥の思想と実生活とをめぐっての論争は、やはり面白い。関連するのは以下の三篇である。残念ながら、私は正宗白鳥側の文章を読んでいない。
「作家の顔」
「思想と実生活」
「文学者の思想と実生活」
発端になったのは、次の正宗の文章である。
廿五年前、トルストイが家出して、田舎の停車場で病死した報道が日本に伝わったとき、人生に対する抽象的煩悶に堪えず、救済を求めるために旅に上がったという表面的事実を、日本の文壇人はそのままに信じて、甘ったれた感動を起こしたりしたのだが、実際は細君を怖がって逃げたのであった。人生救済の本家のように世界の識者に信頼されていたトルストイが、山の神を恐れ、世を恐れ、おどおどと家を抜け出て、孤往独遇の旅に出て、ついに野垂れ死にした径路を日記で熟読すると、悲愴でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡にかけてみるごとくである。ああ、我らが敬愛するトルストイ翁!
これに小林は反発して、そういう実生活の煩悶などより大切なのはトルストイの思想の極限的な姿であり、そこに実生活の真相を暴露的に見て取るのは悪趣味に過ぎないと。
二人は、その後も何度も文章でやりあったが、結局すれ違っていて、小林は自らの考えを詳しく説明しなおしているだけである。ドストエフスキーの人間とも関連させたその主張も大変興味深いのだが、具体的には実際に本文に当たっていただきたい。
むしろ、私が興味を引かれるのは、正宗私的な日本的なものの見方についてである。小林も、具体的に次のように説明している。
僕がこの問題で発言の機を捕えたのは、トルストイの家出の原因は、思想的煩悶にはなく、実際は細君のヒステリーにあり、そこに人生の真相を見る伝々の正宗氏の文章を読んで、長年リアリズム文学によって鍛えられた正宗氏の抜きがたいものの考え方とか考え方が現れていると思い、それに反抗したい気持ちを覚えたからである。僕はその気持ちを率直に書いたのであった。
これはとてもよく分かる。トルストイのように本物の天才に凡人性を嗅ぎつけて引き摺りおろし、それが人生だとうそぶく態度。現代とは縁もゆかりもない私小説作家の正宗のみならず、日本人一般に現在まで通低して生き続けている感受性なのではないだろうか。
「思想」というものには常に偽者くささが付きまとう。それに安直に騙されてしまわずに、具体的な裏づけを求めようとするのは、ある意味良いことではある。偽者の思想に夢のように酔いしれているよりはマシだ。しかし、日本的感受性の場合、それだけにとどまらず、本物の思想を生きようとした天才も、全て実生活の事情に引き摺り下ろさないと気がすまないところがある。要するに、自分たちの凡人性から逸脱するものが不愉快で我慢がならず、なんとしても自分たち凡人の側にまで足を引っ張らずにはいられないのだ。
その根底には、自分たちの生きる生活、習慣、習俗への、ほとんど盲目的ともいえる従属姿勢がある。単に貧しい現実に無意識に迎合しているだけなのに、そこから外れようとする人間を子供っぽいとして嘲笑し、自らを世の中のことを知り尽くした大人だと考えて得々としているのだ。
そういう人間たちが致命的に見落としているのは、自分たちが安住する現実が相対性な「正しさ」を持つだけに過ぎず、すこしも本当は「現実的」な現実などではないということである。無邪気な現実肯定と、自分が理解できないものらに対する意地の悪い蔑視に、自分たちでは全く気付いていない。
正宗白鳥は、かなり正直にそういう感性を告白しているのだと思う。しかし、現代日本においてもミニ正宗が実は嫌というほど蔓延しているのだ。それは、単純な「実生活信仰者」には限らない。それこそ、「思想」の分野でも、冷静な分析を装いながら、他とは違う特異な思想を押しつぶそうとする残酷な力が常に働く。本人は「思想」を冷静に判断しているつもりだろうが、実は思想とは関係ないレベルでの通俗的実感信仰の力が働いているのである。芸術の世界でもスポーツの世界でも、どの世界でもそうだ。何か特別な才能を持つものが、自由にその才能を伸ばすのをことごとく妨害しようとする分厚いどす黒いオーラの雲に日本の精神風土は包み込まれているのである。
小林は「思想と実生活」という観点から論じていたが、別の観点からすれば「個と集団」の問題でもあると思う。日本人の個は常に集団と入り混じった中途半端な個なのである。それだけ柔軟な構造をしている個だが、本物の個はきわめて生まれがたい。長所もあれば短所もあるという問題だが、少なくとも現代においては、圧倒的に短所の面が大きい状態になってしまっているように感じる。
posted by rukert | Comment(4) | TrackBack(0) | 小林秀雄
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