2009年03月01日

タルコフスキーの「サクリファイス」を再び観て



「鏡」をもう一度見てみたら、とてもよかったので「サクリファイス」も勢い込んで見直したのだが、見ていて当惑が広がっていった。最初見た時と同じで、やはり途中でかなり退屈してきたのだ。私には退屈といわれるタルコフスキー映画に熱中する能力があって、たとえば「ストーカー」などは、ほとんど身じろぎもしないで観終えた。あの映画だって相当長いので、サクリファイスの長さのせいだけでもないだろう。
なぜかを考えていたのだが、たぶん中間部の映像の質のせいではないかと思う。「サクリファイス」の冒頭シーンは文句なく素晴らしい。あの木を植えるシーンとオットーが自転車でこちらに走ってくる構図。光も色彩も全て完璧である。あのシーンだけでも、十分タルコフスキーの名誉といえる。
ただ、アレクサンドルの屋敷の中に入ると、映像の色彩がなんだか脱色された、どこか夢の中のような感じの絵が延々と続く。核戦争が起こったという状況にふさわしいし、あくまでそういう狙いで撮っているのかもしれないが、映像自体にこちらを捕まえておく強い力がないように感じてしまうのだ。もしかすると、それは私の感受性の欠如のせいであって、他の人は違う感じ方をするのかもしれないが。
「ストーカー」は、逆のパターンである。最初の日常世界のシーンは暗いモノクロが続く。それが、「ゾーン」の中に入るとカラーになる。効果的な使い方で、とにかくその圧倒的な映像の力にずっと引きまわされる快感に浸り続けることが出来る。サクリファイスでは逆の印象を受けてしまうのだ。
また、「鏡」のように登場人物が一切余計なことを喋らないというのとも、「サクリファイス」は、全く違うつくりの映画である。アレクサンドルは、草むらに座って現代文明批判をぶつ。ああいうシーンは、当然映画では危険を伴う。せっかくの映像美を人間のつまらない哲学的言辞が台無しにする可能性があるからだ。しかし、それでもタルコフスキーは、そういうことを登場人物に語らせたかったのだろう。「映像のポエジア」では、彼自身が現代文明に対する痛烈なノンを突きつけていたのだから。とはいえ、登場人物が全体に饒舌なのは、やはり映画として集中力求心力を弱めているという印象は否めない。
それと、主役のアレクサンドルを演じるエルランド・ヨセフソンのキャスティングの問題もあると思う。言うまでもなく、彼は素晴らしい役者である。タルコフスキーも、彼のことを心から信頼していたことが「サクリファイス・イン・ファイル」を観ても分かる。
彼の最高のはまり役は「ノスタルジア」のドメニコだろう。あの世捨て人の変わり者で、しかし非凡な人間というのがピッタリである。彼からは、なんと言うか人間が普通持っている他者への攻撃性というものを全く感じないのだ。それがドメニコ役では大変効果的なのだが、アレクサンドル役としては物足りない。今は隠者のような生活をしているが、もともとは有名な俳優で、恐らくもともとはとても美しくて魅力的だった女性とも恋愛結婚をしている。アレクサンドルは、単なる隠者的聖者ではなく、もともとは人間的で社会との積極的に関わる能力を持ちながら、なおかつ心の中にはとてつもない闇をかかえているというタイプの人物設定なのではないかと思う。タルコフスキー自身が、恐らくそういう人物だったのではないだろうか。それが、ヨセフソンだと、あまりに内面性の高貴ばかりが目について、外に対して放射する力が不足していると感じるのだ。勿論、彼には何の責任もないのだけれど、私には、アレクサンドル役には、内面性と外向性の両面が必要で、それがこの映画を成立させる上でとても大切なポイントだったような気がしてならない。
タルコフスキーは、本来アレクサンドル役としては、「ストーカー」で作家を演じていたアナトリー・ソロニーツィンを考えていたそうである。「ストーカー」での彼は本当に素晴らしいし、彼ならアレクサンドルの二つの矛盾する面を十分表現できたような気がしてならない。言っても仕方ないことだが。
しかし、最初見た時もそうだったが、私は途中からこの映画の見方を全く変えたら楽しめた。アレクサンドルが、オットーに、魔女のマリアと寝れば世界を救えるといわれるというシーンあたりで、なんだかおかしくなってきたのだ。そのあと、自転車でこけるシーン、マリアと寝るシーン、火事のシーンなども、深刻でありながら、何かおかしい狂言のようなものとして見終えたのだった。そもそも、アレクサンドルは日本びいきで、尺八の音楽が何度も流れたり、家に火をつける際に変な和服のようなものを着こむのも、日本人からすれば、ちょっとおかしく感じるだろう。
勿論、そんなのはくだらない見方だし、間違いに決まっている。しかし、どうもこの映画はタルコフスキー的に詩的に力を凝縮していく映画、一番よい例は「鏡」、とは違って、なんと言うか、拡散していく劇という印象を受ける。あまり真面目に力を入れてみると、私でなくても退屈してしまうのではないだろうか。だから、あれを一種の「狂言」としてみるのは決して間違っていないと勝手に考えている。勿論、ごく私的な見方だが。
とはいえ、やはり最後の家事のシーンからラストはやはり圧倒的である。最初のシーンと同じで、映像が生き返る。勿論、タルコフスキーは意図的に映像を一変させている。登場人物もそうで、医師は突然自己主張をしだすし、婦人もパニック時に見せた人間らしさを失い、いつもの支配欲の強い女に戻ってしまう、娘も勝手気ままに行動する。要するに、あの火事のシーンでは、全てが核戦争の異常事態から、完全に日常に戻っているのだ。アレクサンドル一人を除いては。あるいは、魔女で世界を救ったのかもしれないマリアを除いては。火事のシーンではそのマリアが効果的だ。自転車に乗って走るところもとてもよい。あのシーンで、全てが日常に戻り、アレクサンドルも単に頭がおかしくなっただけかもしれないと観る者が思いかねない中で、マリアだけはただの女中なのか魔女なのかよく分からせないまま、自転車を猛烈な勢いでこぐのだ。
そして、子供が植えた木の下に寝そべって、カメラが上に移動していくラストシーンはまさしく完璧である。あのシーンを見れば、わたしのつまらない不平不満も雲散霧消するという仕組みである。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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