2009年03月29日

小林秀雄全集 第五巻 「ドストエフスキイの生活」

そもそも、私はドストエフスキーを全部読んでいるわけではない。五大長編でも、「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」を、若い時に読んだだけだ。しかし、小林の評論を読んでいると、全部読みたくなってしまう。今第六巻の「ドストエフスキーの作品」に手をつけたところだが、「罪と罰」からの引用がとてつもなく面白い。多分。若い時読んだ時は全然気がつかなかったものがあるように感じる。私は小林の「ゴッホの手紙」を読んで、実際にあの膨大なゴッホの書簡を全部読むという馬鹿なことをした前科もあるのだ。あれが、個人的には最高の読書体験だった。ゴッホに完全に取り憑かれていた。常にあの分厚いゴッホの書簡集を持ち歩いて、電車の中だろうがどこだろうが所構わず読んだ。人気のない海辺の砂浜で酒を飲みながら寝っころがって読んだりもした。無論、若い時の話である。つい懐かしくなって、くだらない思い出話をしてしまった。
「ドストエフスキーの生活」は、ドストエフスキーの生涯を忠実に辿った伝記である。小林の見方を強く主張するというよりは、きちんと事実を伝えることを重視しているという印象を受ける。それが物足りないという人もいるだろうし、小林流の「無視の精神」で書かれた伝記という事も出来るのだろう。
当時の日本では、ドストエフスキーは作り物、病的な精神による観念小説という見方をされていたという。小林は、そういう見方に反発してドストエフスキーを書きたくなったのかもしれない。小林のドストエフスキー観と言うのは、最初に引かれているこのニーチェの言葉に要約されるといっても構わないだろう。
病者の光学(見地)から、一段と健全な概念や価値を見て、また再び逆に、豊富な生命の充溢と自信とからデカダンス本能のひそやかな働きを見下すということ。ーーこれは私のもっとも長い練習、私に特有の経験であって、もし私が、何事かにおいて大家になったとすれば、それはその点においてであった。(ニーチェ「この人をみよ」)
長年付き合った友人に最低の卑劣相漢のように言われ、妻には高貴な魂のように言われる両面性を持ち、流刑時代に極限的な状況を身をもって体験し、賭博に溺れ、驚くべき生活の乱脈と混乱を「猫の生命力」で全て受け入れて生きた人物。彼の小説は、一見観念的に見えるようでも、観念が極限の姿をとった時にみせる生々しい生命力や現実性を常に湛えている。
ドストエフスキーの独自性は,ロシアという特殊な現実を正面から受け入れ、その混乱をありのままに表現しようとしたところにある。西欧作家の文化的洗練や、あるいは日本の全く別の種類の実感に裏打ちされた文化的洗練とは異なり、ロシア的な荒々しい精神性そのもの表現なのである。
ロシアの混乱を首を出して眺める窓が彼にはなかった。彼が当時のインテリゲンチャに発見した病理は、すなわち己の精神の病理であることを厭でも眺めなければならないような時と場所に彼は生きなければならなかった人である。「現代ロシアの混乱」の鳥瞰は、そのまま彼自身の精神の鳥瞰に他ならなかった。インテリゲンチャの不安はそのまま彼自身の懐疑であった。彼はこれを観察する地点も、これを整頓する支柱も、求めなかった。ただ自らこの嵐の中に飛び込むことによって自他共に救われようとしたところに、彼の思想の全骨格があるのであって、ここにことさら弁証法によって武装した手で、哲学者ドストエフスキイ、神学者ドストエフスキイを発見しようとしなければ、彼の姿は明瞭なのだ。嵐のうちに巻き込まれて生きた彼には、民衆も聖教もキリストも、台風に必死な台風の目のごときものに他ならなかったのである。

晩年に、フーシキン祭で演説して、聴衆を興奮と熱狂の渦に巻き込んだという逸話も興味深い。普段は冷静なツルゲーネフも、泣いてドストエフスキーの手を握り締めたという。ドストエフスキーは癲癇持ちだったが、そういう磁波を他人にも与えるところがある人物だったのだろう。ある種のクラシック指揮者が、そこにいるだけで聞き手を催眠術にかけたように酔わせるように。そういう演奏はライブで聴くととてつもなく興奮するが、録音を聞くとそれが分からない。ドストエフスキーの講演も内容を読むとどうということはないそうである。
他にも、フランス外交団にいたヴォギュエのドストエフスキー描写もとても印象的だ。
人間の面上に、これほど積もり積もった苦悩の表情が表れているのを僕は見たことがない。心身の不安はことごとく面上に刻まれて、彼の作品を読むよりももっとよく死人の家の思い出、恐怖と疑心と犠牲との長年の常習が読み取れるのであった。眼、唇は無論のこと、顔中の筋が神経的な痙攣で震えていた。

ドストエフスキーについて語った小論もいくつか収められている。「ドストエフスキーのこと」のこの部分は素晴らしいと思う。
その謎めいた姿は、何らかの欠如や退廃から来ているのではなく、何かの過剰を語っているように思われる。例えば彼の思想に、反知性主義を仮定してみることは容易だが、彼がそのために僕らに見せてくれる驚くほど高度の知性はどういうことになるか。僕らは作者の全努力の先端といったようなものに面接する。それは何か大きな非決定性であり、解いてはならぬ謎のように思われる。

「ドストエフスキイ七十五年際における講演」も興味深い。ドストエフスキーを生んだロシアという精神的風土についてかなり踏み込んだ考察を行っている。罪と罰の主人公のラスコーリニコフラスの由来となったと思われる「ラスコオル」とは、ロシア正教会から分離したセクト、異端のことである。様々なセクトがあるが、民衆素朴な宗教意識と結びついて、場合によっては集団焼死を選ぶような過激な宗教運動だった。根本的な考え方としては、ロシア皇帝の国はサタンの国であり、反キリストということである。そういう過激な精神的潮流を元にラスコーリニコフという名前をつけたのは、深すぎる意味があるように思える。
この講演から素晴らしい部分を引用する。
ドストエフスキイは、自由の問題は、人間の精神だけに属する問題であり、これに近づく道は内的な道しかないことを、はっきりと考えていた。自由は、人間の最大の憲章であるが、また、最大の重荷でもあり、これに関する意識の苦痛とは、精神という剣の両刃の様なものだ、と考えていた。もし、そういう考えが過ぎ去った人の過ぎ去った観念論に過ぎないなら、ソヴェトで、ドストエフスキイスキイが解禁になっても、昔は、そんな寝言を言っていた作家もあった、でけりがつくでしょう。だが、そんなことはない。この問題は、外部から政治的に解決できるような性質のものではない。
そして、小林は戦後日本で新しいとされている考えへの深い違和感を表明している。この問題は決して古くならない問題である。結局個人個人が自分で血を流して会得するしかない課題だから。
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2009年03月22日

小林秀雄全集第四巻「作家の顔」

本巻中の小林と白鳥の論争については、別に書いた。
他にも面白いものはたくさんあるのだが、「戦争について」がとても気になる。小林は戦争の時代を生きた、現在我々はすっかり平和ボケして自分の国が戦争したり動乱している状態を想像することすら出来なくなっている。もし、我々がそういう状態に置かれたら、どのように振舞うべきなのか。
小林が編集していた「文学界」の後記もこの本に収録されているのだが、その中にこういう部分がある。ある雑誌から戦争についての座談会への出席を求められて。
「戦争に対する文士の態度という特別な態度でもあるのかい。」
「ないでしょうね。」
「だから僕は断るよ。一言で済んでしまうもの。戦いは勝たねばならぬ。同感だろう。」
「同感だ。」
小林流の放言なのだけれども、決して馬鹿にして済まされない問題である。
「戦争について」からも、いくつか引用する。
銃をとらねばならぬ時が来たら、喜んで国のために死ぬであろう。僕にはそれ以上の覚悟が考えられないし、また必要だとも思わない。一体文学者として銃をとるなどということがそもそも意味をなさない。誰だって戦う時は兵の身分で戦うのである。
文学は平和のためにあるのであって戦争のためにあるのではない。
日本に生まれたということは、僕らの運命だ。(中略)自分一身上の問題では無力なような社会道徳が意味がないように、自国民の団結を省みないような国際正義は無意味である。
いわゆる敗戦思想を僕は信じない。極言すれば、そんなものは思想とさえいえないのだ。科学から意匠だけ失敬してきた感傷的な政策論に過ぎない。俺は審判者である、貴様の国家は歴史的に遅れているから、人類の理想のためにもう一つの国家に負けろ、などということでは子供の喧嘩の仲裁すら難しかろう。
歴史の最大の教訓は、将来に対する予見を盲信せず、、現在だけに精力的な愛着を持った人だけがまさしく歴史を作ってきたということを学ぶところにあるのだ。過去の時代の歴史的限界性を認めるのはよい。但しその歴史的限界性にも関わらず、その時代の人々が、いかにその時代のたった今を生き抜いたかに対する尊敬の念を忘れては駄目である。この尊敬の念のないところには歴史の残骸があるばかりだ。
文学者たる限り文学者は徹底した平和主義者であるほかはない。従って戦争という形で政治の理論が誇示された時に矛盾を感じるのは当たり前なことだ。僕はこの矛盾を頭の中で片付けようとは思わない。誰が人生を矛盾なしに生きようなどというおめでたい希望を持つものか。同胞のために死ななければならぬ時が着たら潔く死ぬだろう。僕はただの人間だ。聖者でもなければ預言者でもない。
小林の言っていることは正論なのである。特に、現代の平和ボケの状況において、自分の立場を棚に上げて安易に何らかの政治的事件を批判することに対して、私自身もほとんど生理的嫌悪を感じる。どんなに正しいことを言っているとしても、自分の立場を省みない正義感やヒロイズムや自惚れというのは不愉快なものである。特に本人が全く気付いていない時は醜い。
しかし、だからといって小林の言うところまで一直線に突っ走っていいのだろうかと、決して大声ではなく、こっそりつぶやきたくなるのも事実である。
小林も明快に指摘している通り、本当の文学者というのは本質的に徹底的な平和主義者であるしかない。しかし、戦争という状況においては、自分の実践的、実際的立場を取らざるをえない。小林は、とにかく戦争が起こったら、それに加わるしかないというのである。
戦争で自国民が、そして現場の兵隊たちが極限的な苦しみを受けている時に、大局的な空疎な平和論、敗戦論をぶつのは確かに醜い。それは小林の言うとおりだ。小林の言うことはとことん男らしい。
しかし、文学者が、小林の言うようなものならば、やはり戦争時にも文学者は徹底した平和主義者であり続けるべきなのではないだろうか。それは自分を棚に上げたおめでたい平和主義ではなく、苦渋と苦難に満ちた抵抗だろう。自分が自分の国家から一歩上に立った無関係な存在では決してなく、あくまでその運命を共有する一員であることを鋭く感じながら、激しい苦しみを感じながら、無責任な平和主義の立場を、声高にではなくひっそりと続けること。ヒロイズムや建前論とかは一切なく、ウジウジと戦争に逆らうこと。文学者や知識時間ののとりうる態度、というかギリギリの実際の生き方というのはそういうものでしかないのではないだろうか。
勿論、こういうことも言うだけなら容易だ。実際に戦争という状況におかれた時の振る舞いについて、現在の平和ボケの我々が何らか言うのが、そもそも無限にためらわずにはいられないことなのである。例えば、現実に兵隊になったら、兵となって戦うしかない。それ以外の選択はないのは無論なのだが。
小林は、自分は聖者で話すし預言者ではないという。その通りだ。誰だってそうだ。しかし。文学者や知識人というのは、自らが聖人とは遠く離れた卑小な存在であることを深く自覚しながら、盲目的な民族の集団的運命に、卑怯といわれようが姑息といわれようが、イジイジと逆らうべきものなのではないだろうか。
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2009年03月20日

新藤兼人「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」



溝口健二の映画、人間についての膨大な証言をあつめたドキュメンタリー風フィルム。とにかく、徹底的に調査取材を行っている。インタビューに登場するのも、田中絹代、山田五十鈴、京マチ子、木暮実千代、若尾文子、香川京子、入江たか子、浦辺粂子といった女優たち。さらに、進藤英太郎、小沢栄太郎、宮川一夫、依田義賢、永田雅一、川口松太郎という具合である。彼らがし実際に話すのを見ることが出来るだけで、もう十分なくらいだ。
私はこれを見て、溝口作品を全て見たくなったのである。
溝口は、人間的には人格円満というタイプではなく、良いところもあれば欠点もあるというタイプだったようである。新藤は、基本的には溝口のそういう人間味を温かく見守り肯定しようという立場である。そもそも溝口映画というのが゛、弱い欠点だらけの人間に対して深いところで優しい目を注いでいるという種類の映画だった。
但し、現実問題として、迷惑をこうむった人間も多い。例えば、入江たか子は「楊貴妃」に撮影途中で降ろされていて、この映画の中でも入江本人がその経緯について語っている。女優にとって、途中で降ろされるというのは致命的なことである。映画を撮ることに夢中になるとそういうことも平気でしてしまう人だった。また、その楊貴妃に出ることになった京マチ子も、あまりに厳しい演出のためもう溝口映画には出たくないと思ったと証言している。若尾文子も「赤線地帯」の時に色々言われてついには「顔が悪い」とまで言われたそうである。大監督だと思って皆我慢していたのだろうが、女優たちが当時のことを思い出したのか、柔らかい口調ながら憤懣を語っているのが面白い。
溝口自身の生涯についても、追っている。若い時に売春婦に情痴騒ぎで切りつけられたこともあるそうで、その他にももやはり色々「女性を愛した」人のようである。そうでなければ、ああいう男女の関係の描き方をするのは不可能だろう。
とにかく、撮影に対する熱心さと集中力は凄かったようである。俳優たちの証言からも、彼らをギリギリまで追い込む演習方法が伝わってくる。また、集中がそがれるのが厭で、現場に尿瓶を持ち込んで決して撮影場から離れなかったそうである。
田中絹代が「雨月物語」の、あの森雅之とのラストシーンについて語っている。難しいシーンだが、森も田中も会心の演技をして、田中もクタクタ、森も普段はタバコも吸わないのに、その時ばかりは極度の緊張から開放されたのか、タバコを要求した。そして、火をつけようとしたがうまくいかなかったのだが、溝口がすかさず駆け寄って、ライターを差し出したそうである。普段は役者には絶対そんなことをしないのに。しかも、その表情というのが、今まで見たことがないような、いとも満足という表情だったという。本当に命がけで良い映画をとることだけ考えていた溝口と、それに応えた森や田中という名優たちの雰囲気が伝わってくる話である。
このドキュメンタリー映画を見ていると、結局溝口は映画をつくることだけ考えて生きた人間であること、人間的には色々欠点もあったが、そういうものが全て映画をつくるために収斂された人生だったと、自然に納得する。とても優れた作品だと思う。
ちなみに、溝口は田中絹代のことをリアルで恋していたらしい。決して実際に告白するようなことはなかったが。周りのスタッフは、皆気がついていたらしい。新藤は田中にそのことについて聞いている。その場面では、新藤もどうしても言いたかったのか、かなり執拗に田中に迫っている。しかし、田中の基本的な答えは単純明快である。監督としては心から尊敬していたが、一個人としては愛する対象ではなかったと。
こんなフィルムのでまで、田中に振られているのが溝口らしいともいえるだろう。
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2009年03月17日

溝口健二「新平家物語」



晩年の溝口は。「楊貴妃」といい、この作品といい、本来彼には合わない作品を撮らされていた。巨匠になったので、大作、力作をということなのだろうが、そういうのが溝口の性に合わないのはやや不幸だった。
映画が、尻切れトンボな終わり方をすると思ったら、これはシリーズ第一作で、別の監督で第二、゛第三作が撮られて、一応完結しているらしい。
とはいえ、映画自体はとても面白い。テーマが溝口的な男女の愛の世界でないことと関係なく、やはり溝口的に徹底して色々なものを追い込んで作り上げた形跡がありありで、とてつもない勢いがあるので、すっかり見入ってしまうのである。
市川雷蔵の平清盛も存在感は抜群だし、大矢市次郎の平忠盛も渋い。比叡山延暦寺の僧兵たちの圧倒的な数と迫力。清盛と僧兵たちの対決シーンは、やはり息を呑んでしまう。溝口には歴史者の大作を生き生きと撮る能力も十分あることを証明していると思う。溝口映画では、常に気になる存在の進藤英太郎は清盛を支えるしたたかだが人間味もある商人の伴卜役。彼がとんでもない悪役でないと、ちょっとホッとしてしまう。
宮川一夫のカメラは素晴らしく、特に屋外の情景にはほれぼれするくらい美しいシーンがいくつもある。
清盛と久我美子の妻時子の愛は、青春らしい爽やかなもので、溝口らしいものではない。むしろ、この映画で一番溝口らしさが出ているのは、清盛が忠盛の実子ではなく、白川上皇の隠し子であり、木暮実千代 が演じる清盛の母、泰子が白拍子時代にもうけた子で、それを清盛が知るあたりの心理ドラマである。そして、清盛と母との愛憎劇。
木暮実千代は「祇園囃子」では、健気な芸者役だったが、ここでは憎憎しいくらいの、男を愛することだけ考えている我儘な女性になりきっている。その存在感とか、まあなんですわ、現代風に言うならば熟女の濃厚な色気はものすごい。しかし、溝口は決してそういう女性を決して侮蔑したり否定するのではなく、そういう性の女性の業を肯定する、どころか愛してやまないところが感じられる。
白拍子のウィキペディアより。
白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い人が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾静御前など貴紳に愛された白拍子も多い。

遊女でありながら芸術的な感覚が洗練され、通常の家族の母にはおさまりえない女性。間違いなく溝口はそういう女性が好みだろう。そして、木暮実千代は、そういう女性の魅力や我儘や性格の弱さや性的牽引力や高貴さと卑俗さの同居といった矛盾する要素を完全に表現しきっている。
この映画で、個人的にもっとも素晴らしいと思うのは彼女だ。木暮実千代による白拍子が主役の映画を作って欲しかったくらいである。
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2009年03月15日

溝口健二「楊貴妃」



正直言って、見る前はあまり期待していなかった。溝口に中国の歴史ものですか、有名になったから名作狙いで一発当てようという魂胆丸見えじゃないですか。溝口の場合、明らかに自分には合わないテーマの作品も結構撮っているので、またそうなのかと思い込んでしまっていた。カメラも宮川一夫ではないし、溝口初のカラー作品でもある。
しかし、全くいい意味で裏切られた。溝口は、玄宗皇帝と楊貴妃の愛の物語を、歴史的史実など完全に無視して、溝口流の男と女の物語に仕立てあげてしまった。素晴らしい天才の力技である。溝口は歴史交渉にもうるさくて、ある女優に厚い歴史の本を渡して、これを読んでおきなさいと言ったとかいうエピソードも残っている。しかし、そういうこだわりがありながら、結局は無視してしまって、自分好みの物語を作ってしまう天才の独断に乾杯。舞台は中国の宮廷だが、ほとんど日本の遊郭の話としてもおかしくない。そもそも、誰も溝口映画に歴史的考証の厳密や精緻など求めていないのだ。もっと他のものを求めている。そして、溝口はそういう期待に見事に応えてくれている。
この映画はそれほど高い評価を受けているわけではないようだ。Amazonのリンクをはろうとしても、単独品がなく全集しかなかったくらいである。しかし、個人的には、とても気に入った。楊貴妃のも物語ではなく、「近松物語」のように見てしまえばよろしい。細かいことなど、一切気にせずに。
森雅之の玄宗皇帝からして、あまりに聖人に性格設定しすぎているだろう。だが、そんなことは気にしないでよい。彼が楊貴妃を愛するという必然性だけ観る者に納得させられるならば。京マチコの楊貴妃が、とても美しくても全然楊貴妃のイメージでなくても一向に構わない。玄宗皇帝を慕う必然性だけ納得させられるならば。溝口が描くのは、男や女の個人としての物語ではなく、あくまで男女の対の物語である。男と女が愛し合った場合に現出する異様でいてしかしリアルな確固たる世界。他者からは伺いしれないが羨望し共感せずにはいられない特別な世界に対する無邪気なまでの徹底的な肯定が根底にある。
長安の町に二人でお忍びで出かけるシーンが素晴らしい。 森雅之が、街の団子か食べる際には、まるで生まれてそれを食べるかのように食べている。そして、京マチ子の楊貴妃が街中で踊る場面の見事なこと。彼女は、たぶん運動神経抜群ですごく敏捷なところがある。
そんなのは歴史的にはありえない、大岡越前が町にお忍びするんじゃあるまいし、という野暮な突っ込みは不要である。二人が、お忍びで町の祭りを心から楽しんで、二人の世界にすっかり浸っている感じがありありと出ていることが何より肝心なのだ。
京マチ子の楊貴妃というのは、もともとのイメージからするとミスキャストなのかもしれないが、そんなことがどうでも良くなるくらい、この映画の中での彼女は活き活きしている、・・ようにフィルムの中では見える。森雅之と同じように観る者は恐らく京マチコに恋してしまううのだ。楊貴妃に対してではなく。
歴史的背景など一切関係なく、森雅之と京マチ子の愛に無邪気に溺れきってしまうこと。この映画を観る者に唯一求められているのは、それだけである。そういう観方をすれば、紛うことなき純然たる溝口作品の姿をしている。
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2009年03月14日

溝口健二「名刀美女丸」



溝口が戦時中に「生活のために作った」映画であり、欠損部分もある。テーマも、親の敵を娘が討つために、そのための日本刀を伝統精神により花柳章太郎の刀工が必死に作るという話。テーマからして溝口に合っているとはいえないし、溝口信奉者でもほめるのはちょっとためらうという映画である。はっきりいって失敗作。
特に、刀を刀工が必死に作ろうとして、精魂尽き果てて倒れそうになるところに、娘役の山田五十鈴,が生霊のように画面に現れて手伝うシーンには、完全に笑ってしまう。C級映画に、時々とんでもないのがあるが、ほとんどそういうレベルである。
山田五十鈴,の出演作では「浪華悲歌」が素晴らしかっただけに残念だが、彼女の若い時というのは確かに素晴らしい。私などは、かなり年齢がいってからの彼女しか知らなかったのでとても新鮮ではある。
冒頭のシーンで、山田と父親が、剣道の稽古をするシーンは良い。面をつけたままの山田のものすごい気合の声、父親が遠慮しないで打ってきなさいといい、実際に思い切り面を入れてしまい父親がクラクラして、心配した山田が面を取るというあたりは、溝口らしさの片鱗を感じる。また、ラストで仇討ちを遂げたシーンで、刀工の花柳章太郎が「一生この刀をあなたの元に置いてください」というと、山田が「あなたも一緒にずっと置いておきたいです」と照れたように言うあたりも、溝口らしい。本当にほめることが出来るのは、それくらいなのだ。
溝口がこういう駄作も平気で作ってしまう監督だったというのも、らしいといえばらしい。よく言われるように、実生活では決して人格円満というタイプではなかったし、完璧な人間でもなかったようなので。
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2009年03月13日

溝口健二「近松物語」



溝口らしい作品ということで、文句のつけようがないだろう。特にどうこう言うべきこともない、見れば分かるという作品である。
長谷川一夫も香川京子も、役者というレベルを軽くこえた存在としてフィルムのなかにおさまっている。役者として演技する作為的な姿勢を捨て去るのではなく、反対に過剰なくらいに役者としての表現を行うことで、逆説的に役者が演じる臭みとかいやらしさというものが完全になくなってしまっている。それが溝口の演出方法である。
船で心中しようとして、茂平が死ぬ前にかねてからおさんにいだいていた思いを告白すると、おさんは怒ったような顔をする。茂平が謝ると、それを聞いたらもう死ねない、生きていたいといって、茂平に体ごとすがりつく。とっておきの名シーンである。ストレートで全く余計な要素のない男女の愛のシーンなのだが、勿論現実ではこういうわけにはいかない。しかし、男女が愛し合うというのはこういうことだという幻想に見る者は完全にとらえられてしまい、それが現実よりも現実らしいのである。我々が生きている現実は、実は本物の現実ではなく、かろうじて映画で誇張して表現することで、なんとか感知することが出来るのだ。
というように妄想が起きるくらい、溝口の撮り方は圧倒的である。二人の名シーンは他にもいくらでもある。
進藤英太郎が、相変わらず徹底した悪役を演じきっている。とんでもない奴なのだが、どこか憎めない男なのだ。実際、最後はもっと悪賢い奴に足元をすくわれる。溝口の場合、本当に悪を憎むというよりは、人間的な弱さや業の肯定というのが根底にあり、そのために進藤英太郎という役者、人間が必要だし、またピッタリなのである。溝口映画において、田中絹代よりも重要な役者なのかもしれない。
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2009年03月07日

溝口健二「武蔵野夫人」



田中絹代演じる武蔵野夫人が、家の名誉のためにわが身を犠牲にして自ら死を選ぶという溝口らしからぬテーマである。大岡昇平の有名な小説が原作で、映画化にあたっては福田恒存が脚本を書いたという。
しかし、そういうテーマとは関係なく、この映画の見所はやはり溝口が描き出す男と女の世界である。田中絹代-秋山道子と彼女よりはるかに若い片山明彦-宮地勉は、ひそかに思いを寄せ合っている。道子は、それを道徳上の観点から必死に抑える。
ある時、部屋で二人きりになって、ソファでお互いの横に座るのだが、勉の手が道子の体に意図せずに触れる。道子はピクッと反応するが何事もなかったように振舞おうとする、それが何度も繰り返され、道子は席を立つと画面奥の窓のところへ歩いていく。勉の表情は若い情熱と情欲を湛えている。いきなり外に雨が降る。道子は「もっと降ればいいのに」という。
雨の降り方もかなり不自然だし、こう文章にすると滑稽に感じるかもしれないが、映像では仮構でありながら現実よりも現実らしい男と女の風景が完璧に描きだされているのだ。理屈抜きの映像の力なのである。こういうのを撮らしたら、本当に溝口の右に出る人はいないだろう。
森雅之も山村聡も、本当に見事としか言いようがない。森は、田中に全く愛情を持っていない夫を性格俳優的なアクの強さで演じきっているし、山村は道楽家で内面性に欠ける事業家に成りきっている。例えば、山村が成瀬の「山の音」で演じた、息子の嫁の原節子を優しくいたわる役とは対極のキャラクターである。おかしいくらい別人に成りきっている。そういえば「山の音」の山村と原の抑圧されたエロティックな関係というのも、溝口とはまた違った成瀬の男と女の世界だった。
田中が自殺する覚悟を決めているのを映画を見ている人間が分かっている状況で、森が酔って家に帰ってくるシーンの撮り方も見事だ。見る者は、当然どういうシーンが出てくるのか予期できているのでハラハラする。森は泥酔していて、ガタガタとやかましく家の中を動き回る。家の中は静寂そのものである。色々な部屋に行くのだが、なかなか何も起こらない。そして、やっと田中の寝室に辿り着き・・。というのは、やはり映画でないと出来ない表現である。
森が人妻の轟夕起子に言い寄ろうとして、甘く見るんじゃないわよと、突き飛ばされて吹っ飛ぶシーンがおかしい。片山明彦もヤケになって、女性を押したおそうとして、安い女と思うんじゃないわよと、やはり吹っ飛ばされる。
溝口はそういうシーンが好きだったのではないだろうか。この映画のテーマなどよりも、そういうところがよほど溝口らしい。
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2009年03月06日

小林秀雄と正宗白鳥の論争―思想と実生活をめぐって

小林秀雄と正宗白鳥の思想と実生活とをめぐっての論争は、やはり面白い。関連するのは以下の三篇である。残念ながら、私は正宗白鳥側の文章を読んでいない。
「作家の顔」
「思想と実生活」
「文学者の思想と実生活」
発端になったのは、次の正宗の文章である。
廿五年前、トルストイが家出して、田舎の停車場で病死した報道が日本に伝わったとき、人生に対する抽象的煩悶に堪えず、救済を求めるために旅に上がったという表面的事実を、日本の文壇人はそのままに信じて、甘ったれた感動を起こしたりしたのだが、実際は細君を怖がって逃げたのであった。人生救済の本家のように世界の識者に信頼されていたトルストイが、山の神を恐れ、世を恐れ、おどおどと家を抜け出て、孤往独遇の旅に出て、ついに野垂れ死にした径路を日記で熟読すると、悲愴でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡にかけてみるごとくである。ああ、我らが敬愛するトルストイ翁!
これに小林は反発して、そういう実生活の煩悶などより大切なのはトルストイの思想の極限的な姿であり、そこに実生活の真相を暴露的に見て取るのは悪趣味に過ぎないと。
二人は、その後も何度も文章でやりあったが、結局すれ違っていて、小林は自らの考えを詳しく説明しなおしているだけである。ドストエフスキーの人間とも関連させたその主張も大変興味深いのだが、具体的には実際に本文に当たっていただきたい。
むしろ、私が興味を引かれるのは、正宗私的な日本的なものの見方についてである。小林も、具体的に次のように説明している。
僕がこの問題で発言の機を捕えたのは、トルストイの家出の原因は、思想的煩悶にはなく、実際は細君のヒステリーにあり、そこに人生の真相を見る伝々の正宗氏の文章を読んで、長年リアリズム文学によって鍛えられた正宗氏の抜きがたいものの考え方とか考え方が現れていると思い、それに反抗したい気持ちを覚えたからである。僕はその気持ちを率直に書いたのであった。
これはとてもよく分かる。トルストイのように本物の天才に凡人性を嗅ぎつけて引き摺りおろし、それが人生だとうそぶく態度。現代とは縁もゆかりもない私小説作家の正宗のみならず、日本人一般に現在まで通低して生き続けている感受性なのではないだろうか。
「思想」というものには常に偽者くささが付きまとう。それに安直に騙されてしまわずに、具体的な裏づけを求めようとするのは、ある意味良いことではある。偽者の思想に夢のように酔いしれているよりはマシだ。しかし、日本的感受性の場合、それだけにとどまらず、本物の思想を生きようとした天才も、全て実生活の事情に引き摺り下ろさないと気がすまないところがある。要するに、自分たちの凡人性から逸脱するものが不愉快で我慢がならず、なんとしても自分たち凡人の側にまで足を引っ張らずにはいられないのだ。
その根底には、自分たちの生きる生活、習慣、習俗への、ほとんど盲目的ともいえる従属姿勢がある。単に貧しい現実に無意識に迎合しているだけなのに、そこから外れようとする人間を子供っぽいとして嘲笑し、自らを世の中のことを知り尽くした大人だと考えて得々としているのだ。
そういう人間たちが致命的に見落としているのは、自分たちが安住する現実が相対性な「正しさ」を持つだけに過ぎず、すこしも本当は「現実的」な現実などではないということである。無邪気な現実肯定と、自分が理解できないものらに対する意地の悪い蔑視に、自分たちでは全く気付いていない。
正宗白鳥は、かなり正直にそういう感性を告白しているのだと思う。しかし、現代日本においてもミニ正宗が実は嫌というほど蔓延しているのだ。それは、単純な「実生活信仰者」には限らない。それこそ、「思想」の分野でも、冷静な分析を装いながら、他とは違う特異な思想を押しつぶそうとする残酷な力が常に働く。本人は「思想」を冷静に判断しているつもりだろうが、実は思想とは関係ないレベルでの通俗的実感信仰の力が働いているのである。芸術の世界でもスポーツの世界でも、どの世界でもそうだ。何か特別な才能を持つものが、自由にその才能を伸ばすのをことごとく妨害しようとする分厚いどす黒いオーラの雲に日本の精神風土は包み込まれているのである。
小林は「思想と実生活」という観点から論じていたが、別の観点からすれば「個と集団」の問題でもあると思う。日本人の個は常に集団と入り混じった中途半端な個なのである。それだけ柔軟な構造をしている個だが、本物の個はきわめて生まれがたい。長所もあれば短所もあるという問題だが、少なくとも現代においては、圧倒的に短所の面が大きい状態になってしまっているように感じる。
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2009年03月01日

タルコフスキーの「サクリファイス」を再び観て



「鏡」をもう一度見てみたら、とてもよかったので「サクリファイス」も勢い込んで見直したのだが、見ていて当惑が広がっていった。最初見た時と同じで、やはり途中でかなり退屈してきたのだ。私には退屈といわれるタルコフスキー映画に熱中する能力があって、たとえば「ストーカー」などは、ほとんど身じろぎもしないで観終えた。あの映画だって相当長いので、サクリファイスの長さのせいだけでもないだろう。
なぜかを考えていたのだが、たぶん中間部の映像の質のせいではないかと思う。「サクリファイス」の冒頭シーンは文句なく素晴らしい。あの木を植えるシーンとオットーが自転車でこちらに走ってくる構図。光も色彩も全て完璧である。あのシーンだけでも、十分タルコフスキーの名誉といえる。
ただ、アレクサンドルの屋敷の中に入ると、映像の色彩がなんだか脱色された、どこか夢の中のような感じの絵が延々と続く。核戦争が起こったという状況にふさわしいし、あくまでそういう狙いで撮っているのかもしれないが、映像自体にこちらを捕まえておく強い力がないように感じてしまうのだ。もしかすると、それは私の感受性の欠如のせいであって、他の人は違う感じ方をするのかもしれないが。
「ストーカー」は、逆のパターンである。最初の日常世界のシーンは暗いモノクロが続く。それが、「ゾーン」の中に入るとカラーになる。効果的な使い方で、とにかくその圧倒的な映像の力にずっと引きまわされる快感に浸り続けることが出来る。サクリファイスでは逆の印象を受けてしまうのだ。
また、「鏡」のように登場人物が一切余計なことを喋らないというのとも、「サクリファイス」は、全く違うつくりの映画である。アレクサンドルは、草むらに座って現代文明批判をぶつ。ああいうシーンは、当然映画では危険を伴う。せっかくの映像美を人間のつまらない哲学的言辞が台無しにする可能性があるからだ。しかし、それでもタルコフスキーは、そういうことを登場人物に語らせたかったのだろう。「映像のポエジア」では、彼自身が現代文明に対する痛烈なノンを突きつけていたのだから。とはいえ、登場人物が全体に饒舌なのは、やはり映画として集中力求心力を弱めているという印象は否めない。
それと、主役のアレクサンドルを演じるエルランド・ヨセフソンのキャスティングの問題もあると思う。言うまでもなく、彼は素晴らしい役者である。タルコフスキーも、彼のことを心から信頼していたことが「サクリファイス・イン・ファイル」を観ても分かる。
彼の最高のはまり役は「ノスタルジア」のドメニコだろう。あの世捨て人の変わり者で、しかし非凡な人間というのがピッタリである。彼からは、なんと言うか人間が普通持っている他者への攻撃性というものを全く感じないのだ。それがドメニコ役では大変効果的なのだが、アレクサンドル役としては物足りない。今は隠者のような生活をしているが、もともとは有名な俳優で、恐らくもともとはとても美しくて魅力的だった女性とも恋愛結婚をしている。アレクサンドルは、単なる隠者的聖者ではなく、もともとは人間的で社会との積極的に関わる能力を持ちながら、なおかつ心の中にはとてつもない闇をかかえているというタイプの人物設定なのではないかと思う。タルコフスキー自身が、恐らくそういう人物だったのではないだろうか。それが、ヨセフソンだと、あまりに内面性の高貴ばかりが目について、外に対して放射する力が不足していると感じるのだ。勿論、彼には何の責任もないのだけれど、私には、アレクサンドル役には、内面性と外向性の両面が必要で、それがこの映画を成立させる上でとても大切なポイントだったような気がしてならない。
タルコフスキーは、本来アレクサンドル役としては、「ストーカー」で作家を演じていたアナトリー・ソロニーツィンを考えていたそうである。「ストーカー」での彼は本当に素晴らしいし、彼ならアレクサンドルの二つの矛盾する面を十分表現できたような気がしてならない。言っても仕方ないことだが。
しかし、最初見た時もそうだったが、私は途中からこの映画の見方を全く変えたら楽しめた。アレクサンドルが、オットーに、魔女のマリアと寝れば世界を救えるといわれるというシーンあたりで、なんだかおかしくなってきたのだ。そのあと、自転車でこけるシーン、マリアと寝るシーン、火事のシーンなども、深刻でありながら、何かおかしい狂言のようなものとして見終えたのだった。そもそも、アレクサンドルは日本びいきで、尺八の音楽が何度も流れたり、家に火をつける際に変な和服のようなものを着こむのも、日本人からすれば、ちょっとおかしく感じるだろう。
勿論、そんなのはくだらない見方だし、間違いに決まっている。しかし、どうもこの映画はタルコフスキー的に詩的に力を凝縮していく映画、一番よい例は「鏡」、とは違って、なんと言うか、拡散していく劇という印象を受ける。あまり真面目に力を入れてみると、私でなくても退屈してしまうのではないだろうか。だから、あれを一種の「狂言」としてみるのは決して間違っていないと勝手に考えている。勿論、ごく私的な見方だが。
とはいえ、やはり最後の家事のシーンからラストはやはり圧倒的である。最初のシーンと同じで、映像が生き返る。勿論、タルコフスキーは意図的に映像を一変させている。登場人物もそうで、医師は突然自己主張をしだすし、婦人もパニック時に見せた人間らしさを失い、いつもの支配欲の強い女に戻ってしまう、娘も勝手気ままに行動する。要するに、あの火事のシーンでは、全てが核戦争の異常事態から、完全に日常に戻っているのだ。アレクサンドル一人を除いては。あるいは、魔女で世界を救ったのかもしれないマリアを除いては。火事のシーンではそのマリアが効果的だ。自転車に乗って走るところもとてもよい。あのシーンで、全てが日常に戻り、アレクサンドルも単に頭がおかしくなっただけかもしれないと観る者が思いかねない中で、マリアだけはただの女中なのか魔女なのかよく分からせないまま、自転車を猛烈な勢いでこぐのだ。
そして、子供が植えた木の下に寝そべって、カメラが上に移動していくラストシーンはまさしく完璧である。あのシーンを見れば、わたしのつまらない不平不満も雲散霧消するという仕組みである。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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