2009年02月28日

タルコフスキーの「鏡」を再び観て




タルコフスキーの「映像のポエジア」を読んで、もう一度観たくなった。彼の映画についての考え方を知った上で観るというのは邪道なのだけれど、まあそういう細かいことは気にしないで。
やはり最初に観たときは、たとえタルコフスキーといえども無意識に「ストーリー」を期待してしまうので、「難解」と感じた。しかし、最初から「ストーリー」など拒否している映画と思えば、こんなに美しい映画もない。音楽を聴くように映画を観ればよいのだ。とはいっても、音楽と違って具体的な映像が目の前に確実にある。タルコフスキーの表現を借りれば、フィルムに「刻印された時間」である。その具体的な映像が、濃密な具体性を保持し続けたまま、具体性以外の何かを暗示し、具体性から飛翔しようとしながら、観念に離脱してしまわず、ギリギリの具体性を保っている。具体的な映像でありながら、同時にそうではない何者かを表現している。両者は対立して争っているのでなく、全く異質のものが同時に自然な形でフィルムに収まっているのだ。タルコフスキーの映画とは、つまるところ、そういうものなのだと思う。
この映画には、ドキュメンタリーフィルムが随所に挿入される。「映像のポエジア」で、戦争中に兵隊たちが集団で水の中を歩くシーンについてふれていた。
あの映像を撮った人間は、明らかに特別な感受性と芸術的センスをもつ人間だと。タルコフスキーは、膨大なドキュメンタリーフィルムを観て、ほとんどが駄目なものの中から砂金を探すように素晴らしいものを見つけ出して、この映画に使った。何も映画のために計算して作り上げるものだけが芸術映画ではない。現実の出来事をそのままうまく映されれば、それは最上の映画なのである。タルコフスキーはリュミエール兄弟の撮った車かな何かがこちらに走ってくるだけの短いフィルムにもそういう意義を見出している。だから、ドキュメンタリーフィルムの部分は、この映画に対する「挿入部分」なのではない。きわめて私的な記憶が執拗に映し出されるこの映画で、公的歴史を記録したドキュメンタリーフィルムは、全く同等の地位を与えられている。私的な記憶と歴史の記憶の深いところでの一致。
例えば、冒頭でドモリの少年を、目の力の強い少し魔女的なところのある中年女性が催眠療法で直そうとするフィルムが流れる。あれは、そもそも多分何かのドキュメンタリーフィルムなのか。タルコフスキーがモノクロで撮ったのかよく分からない。別にどちらでもよいのである。その映像は、タルコフスキーの母の記憶の私的物語へと、何の違和感もなくつながっていく。
タルコフスキーがこの映画を撮ろうとした際に、いつもコンビを組んでいるカメラマンに、そのような私的な映画を撮るのには賛成できないとして、仕事を断られたそうである。しかし、この映画はきわめて私的な映画であると同時に、普遍的な映画である。人の記憶というものは、本来それぞれごく私的なものである。共通にすくい上げられた普遍的な歴史的記憶は、観念的には意味を持っても、各個人にとっては決してリアルな生々しい意味を持ちえない。タルコフスキーがしようとしているのは、徹底的に個人的な主観的な記憶のイメージに沈み込んでいくことで、その基層に他の全ての人間とのつながりを見出そうとすることなのだと思う。だから、戦争を記録したドキュメンタリーフィルムも、脈絡なく挿入されても、なんら違和感がない。各個人個人の私的な記憶と、人類全体の記憶は間違いなくつながっている。人類全体の巨大な記憶の基層は、結局各個人にしか分からない生々しいイメージでしかありえない。そういう生きたものとしてしか、人間の記憶はありえないのだ。それを、タルコフスキーは、理屈ではなく、きわめて具体的な映像をフィルムに残すことで証明することに成功していると思う。
仕事を断ったカメラマンは、この「鏡」を見て素晴らしい映画だとほめたそうである。
「映像のポエジア」について私が書いた記事から一部再掲する。
タルコフスキーの求めるイメージとは、決して単純で一律的なものでない。「鏡」で使った、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ねずの木の前の若い婦人の肖像」を例示している。この絵からは、好感とも不快ともいえない、魅力的であると同味に悪魔的なイメージが同時に相互作用しながら矛盾なく同居している。(「モナリザ」にも言えることだ)そういうイメージの全体性をタルコフスキーは求めるというのだ。また、「鏡」の主演女優のマルガリータ・テーレホワにも、そういう性質あることを強調するために、この絵を使ったという。
テーレホワは、この映画では一切「演技」をしていない。この映画の中に、そのまま存在している。かといって、彼女の素のままをタルコフスキーはそのまま映しているわけではない。彼の主張するように矛盾するイメージの宙吊りな結合としてのイメージを明らかに創り出そうとしている。テーレホワは、実に様々な表情を見せる。生活に疲れたすこし冷たそうな母、意外に心の優しい女。我儘な女、繊細な女、気の強い女、傷つきやすい女、知的な女、官能的な女。様々なシーンで色々なイメージを与えるが、常にどこか謎めいているイメージ。そもそも、テーレホワ自身にそういう性質があるのかもしれない。しかし、それは基本的にタルコフスキーが望むイメージ、それは彼の女性に対する極私的な理想イメージとも関わりながら、男性にとって普遍的な意味を持つ女性のイメージとつながっているはずである。テーレホワは、決して一貫した役作りなどせず、その場その場でありのままの新鮮な形で存在している。タルコフスキーが、俳優に求めているのは、そういうことであり、彼女は立派に合格していると思う。
最後のシーンで、夫に息子が欲しいか娘が欲しいかといわれて、彼女はなんともいえない笑顔を見せる。映画のそこまでの部分では見せなかった種類の笑顔に目を奪われるが、しかし単なる明るい笑顔ではなく、何か別の意味も含んでいるような不思議な笑顔。
私は、はじめてこの映画を観た時に、ふざけてテーレホワが個人的にタイプだとか書いた。しかし、そういう馬鹿な私は、自分の軽薄な意識以外に、確かに彼女からそれ以上のものを感じ取っていたのだと、今自信を持って言える。
「映像のポエジア」を読めば、間違いなくタルコフスキー映画に対する理解は深まる。しかし、そうでなくても、ただ彼の映画をぼんやり眺めているだけでも、観るものの心の一番深いところに知らず知らずのうちに喰い込んできている。タルコフスキーの映画とは、そういうものである。そして、この「鏡」は、もっとも深いところに訴えかける力の強い作品だと思う。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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