2009年02月19日

ザ・龍之介全小説全一冊



小林秀雄が芥川龍之介について書いているのを読んで、読みたくなり全作品を読んでみた。やはり面白い。
小林秀雄の芥川評価はきわめて厳しい。「芥川龍之介の美神と宿命」というごく初期の評論で論じている。
芥川自身の「僕はどういう良心もーーー芸術的良心さへ持っていない。が、神経は持ち会わせている。」(「僕は」)という一節をひいて、芥川はよく言われるように理知的作家ではなく神経によって人生を裁断しただけの作家と断じている。逆説によって人生を分析しようとするが、それをとことんまで突き詰めていくことはせず、逆説的な風景を繊細な神経によって描出することだけで満足したのだと。
例えばイエス・キリストの「心の貧しきものは幸いなり」という逆説豹発言は、逆説そのままが現実となるぎりぎりの逆説であるが、芥川の小説にはそのような切羽詰ったものはないのだと。
「ある日の大石蔵之介」「枯野抄」「お富の貞操」などの心理も決して深く突き詰めたものではない心理的風景画にとどまる。現実の相対性を徹底して突き詰めようとしないので、「一塊の土」のように現実を描こうとした小説でも、人間が図式的で本物の生々しいありのままの真実に欠けると。
小林が若い日に熱中していた西欧の小説家や詩人たちと比較すると、いかにも芥川が中途半端に見えたのだろう。それなのに理知的と評価されているに納得できず、中途半端な気取った知性にしか見えなかったのだろう。それは何となく分かる気がする。
ただ、小林は最後にこんなことを言っている。
今日読めば、何と思うだろうか。意外に古風な日本的詩人を発見して心動かされるかもしれない。

ところで私はどうかというと、そもそも小林のように「文学」や「芸術」にそんな真面目な期待など一切していないわけだ。だから、芥川ももっと自由気儘に楽しめる。こうしてまとめて読んでみると、やはりその筆力というのはすごくて、今時使わない表現を用いてみると「女子供が夢中に小説を読む」ように読んだ。特に初期から中期の作品には、文句のつけようのない作品としての力があるとおもう。
芥川が理知的だとか悪魔的だとか言うのは勿論間違いであって、まず感じるのはなんともいえない人柄のよさ、素直さである。
「杜子春」は「ありふれた人情」とか「古いモラリスト」とか酷評されたそうだが、昔から批評はそういうものなのかなと思う。なぜ、もっと素直に受け取れないのだろう。芥川が提出するイメージは確かに生きていて純粋である。それが人生を直視してないという面があるとしても、むしろ人生を見つめすぎて悲観的側面に目を取られてかえって人生が見えなくなるよりも、それよりもたとえ理想であっても明るいイメージの力を提示することのほうがよほど大事だと思う。そして、芥川にはそういう能力があると、少なくとも私は感じる。
「魔術」「父」「毛利先生」。どれも甘いといわれそうだが、私は大好きである。
「地獄変」「藪の中」「羅生門」のような系統の作品があるが、むしろそういう作品こそ本物とはいえない偽者の匂いをどこかにかぎとってしまう。不良ぶっているだけの普通の学生のように。

芥川は自殺してしまった。勿論痛ましいことである。「西方の人」「続西方の人」「侏儒の言葉」といった逆説的分析・箴言については、まさしく小林の批判が当てはまりそうだ。徹底した理論というよりも、常識の一回ひねり、気取りといった芥川の弱点が露骨に出てしまっていると思う。芥川の自殺は世紀末の悲劇とかいうようなことではなく、あくまで神経が実に繊細な男が、恐らくは肉体の病気を主要な原因として、自分を追い詰めって行ったということ以外に意味がないと思う。残酷な言い方かもしれないが。というのは、先に書いたように芥川にはもっと楽天的な人のよさというものがあって、それが本来の最大の長所だったと思うのに、その反対方向に進んで行ってしまっていたのが惜しいと思うからだ。しかし、やはりそういう言い方は人の人生に対しては礼を欠くのかもしれない。
晩年の作品では「ある阿呆の一生」や「歯車」はやはり良い。それは人生を語る深刻さによってではなく、やはり小説風景としての美しさのためだけれども。「ある阿呆の一生」の中で、この部分が忘れられない。
ある雪曇りに曇った午後、彼はあるカッフェの隅に火のついた葉巻をくわえたまま、向こうの蓄音機から流れてくる音楽に耳を傾けていた。それは彼の心持に妙に染み渡る音楽だった。彼はその音楽の了るのを待ち、蓄音機の前に歩み寄ってレコオドの貼り札を調べることにした。
Magic Flute―Mozart
彼は咄嗟に了解した。十戒を破ったモッツアルトはやはり苦しんだのに違いなかった。しかしよもや彼のように、・・・彼は頭を垂れたまま、静かに彼の卓子へ帰って行った。
十戒を破った苦しみの共有というよりは、芥川というのはあの魔笛序曲を聴いてそれが直覚的に分かるタイプの人だったということに私は感動するのだ。つまらないことだけれども。

芥川には確かにユーモアのセンスがあった。「鼠小僧次郎吉」の講談調など腹を抱える。「ねぎ」「好色」「馬の足」なども良い。もっと、そういう側面を追求して欲しかったと思う。
いわゆる歴史上の人物心理シリーズ。小林によれば、ああいうパロディのようなものは、全然その人物に届いてないということになる。しかし、最初からそんなことを期待しなければ面白い。一種のユーモア小説として読めばよいのだ。たとえ人間は描けてなくても、そこで芥川が発揮する手腕は絶妙である。「ある日の大石蔵之介」「俊寛」「枯野抄」「将軍」など、どれも作り物なのだが、そこに登場してくる人物たちが妙に生き生きしているのだ。芥川独特の人形的な人物創造術である。この際、人間が描けてないことなど、どうでもよろしい。
無論、根底には圧倒的な文章力があるのだが。あと、忘れがたいのは「蜃気楼」とか「海のほとり」という、なにもとも起こらない小説、一種の散文詩である。なんとも不思議にリアルな文章で、完全に文章だけで充足している。
芥川は短編作家だったが、やはり長めのものでも抜群の力量を感じる。未完に終わった「偸盗」もすごいし、「邪宗門」とか「アグニの神」とか、一種活動映画的文章の魅力がある。映像を想起させるのだが、文章だけに読む側が自由にイマジネーションを拡げていく余地がある。「影」などには、それこそヒッチコックの「疑惑の影」的な味わいがあると思う。まあ、そもそも小説の中で活動写真を語るという設定なのだけれども。
他にも言い出せばきりはないが、ちょっとした作品にもいいのがいくらでもある。「西郷隆盛」とか「お時儀」とか。

芥川というのは、現在の目で見ると日本の古来のよさのようなものが確かにあるのだが、勿論普通の意味での日本的感覚とは違うものを持っている人だった。「西方の人」を読むと、結局信仰とは無縁な人だったと分かるが、キリスト教に対してかなり真剣な思いを持っていたことは多分間違いないだろう。
「神々の微笑」というのは、芥川の「日本的なるもの」への感覚を知る上で重要な作品だと思う。日本へ布教に来たオルガンティノの前に不思議な老人が現れてあらゆる外来文化宗教の日本化について語る。キリスト教も日本的なるものに変容してその本質を失うであろうと。
ことによると泥烏巣デウス自身も、この国の土人に代わるでしょう。支那や印度も変わったのです。西洋も変わらなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れの中にもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明かりにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい・・・。
芥川は、そういう日本的なものに対してあきらかに違和的感覚を持っていたと思う。それは彼の小説が、当時の私小説とは全く違うだけでも分かる。全てをつつみこみ、一神教的な屹立するものを全て汎神論的に溶解してしまう正体の知れないモヤモヤとしたものに対するほとんど生まれ持っての反逆する感覚があったのではないかと思う。しかし西欧のキリスト教的な徹底的に突き詰めるという意志のようなものがあるというわけでもない。結局、小林秀雄の主張は正しいのかもしれない。
芥川のキリシタン物は、本来のキリスト教的なるものとは明らかに異なるだろう。実際、芥川は晩年「西方の人」で、明確なキリスト教への不信仰不適正を告白している。
しかし、そういうキリシタン物が、私には不思議なくらい魅力的なのだ。「きりしとほろ上人伝」の滑稽で一途な信仰、キリスト教ではないが「往生絵巻」のメチャクチャな浄土信仰。とてつもなくユーモラスであり暖かい。芥川の美質がよくでていると思う。
そして「奉教人の死」については・・。私はこれこそ芥川の最高傑作だと信じて疑わない。
これを甘いとかキリスト教徒は関係ないとか分かったような批評をする奴は犬にでも喰われろ!

:結局のところ、私は芥川との精神的親和性を勝手に感じるというのが結論なのだけれども・・。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評
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