2009年02月04日

タルコフスキー著「映像のポエジア」

タルコフスキーが二十年近く、折にふれて書いたり、インタビューを受けた内容を、場合によっては加筆訂正を加えて一冊の本にまとめたもの。
彼の映画に対する考え方でポイント、肝になっているのは、本の副題にもなっている「刻印された時間」である。映画は、言葉を使う文学と違って事実そのままをフィルムに定着する。「それ独自の事実のフォルムと表示のなかに刻み込まれた時間」が映画という表現方法の特徴である。それが、他のどんな種類の芸術とも異なる映画の特異な性質であり可能性である。そして、タルコフスキーは徹底してその映画の性質を純化追及しようとする。
従って、タルコフスキーにとって、余計なものを付け加えた映画はどんなに一見高級なものであろうと、批判の対象になる。フィルムに定着するためには、対象を、なるべくありのままにしかし最高に研ぎ澄まされた感性で「観察」する必要がある。「自然主義的な事実の固定だけではまったく不十分なのである。映画における映画的映像は、「観察」のかなたに、対象にたいする独自の感覚を提示する。」のである。例えば、エイゼンシュタインの「イワン雷帝」などは、映像に象徴としての意味を込めてしまって、直接的な観察から逸脱しているので否定される。一方、初期の「戦艦ポチョムキン」は、そうした生々しい「観察」がある映画として高く評価する。
他にも、色々多角的にタルコフスキーは映画を論じているが、要するに映画にのみ可能な表現方法から余計なものをそぎとったストイックな追求というのが、基本線である。文学的、あるいは演劇的な要素を、安易に映画に導入しようとすると、タルコフスキーは過敏なくらいに反応して拒絶する。
ある種の映画理論において「モンタージュ(編集)」が特権的な位置を占めることも拒否される。またも、エイゼンシュタインが例に引かれているが、監督のモンタージュにこめられた象徴的な意味の体系を、見る者が読解するように強いられるような映画は、映画の本質に反する。なぜなら、映画の特質とは、直接的な観察によるイメージをフィルムに定着することにあり、そのイメージの持つ力のみが、本当に見る人間の心を動かすことが出来るからだ。モンタージュによる意味の解読行為や操作は、知的遊びに過ぎず映画の本質からは逸脱している。したがって、タルコフスキーにとっては、「モンタージュはショットのなかの時間の圧力を考慮して断片を結合する手段なのだ。」ということになる。あくまで、フィルムに刻印された時間の強度が主役であって、モンタージュはそれらをつなぐ技術であり、決して中心的な創造行為にはなりえないということである。
このタルコフスキーの考え方に、理論的に反論することは可能だし、また必ずしも映画に対する唯一の考え方ではないかもしれないが、少なくともタルコフスキーの映画がこういう理念のもとに撮られていることだけは、彼の映画を見た者ならば、納得せずにはいられないだろう。タルコフスキーは難解と言われるが、それは知的な難解さというものとは一切関係ない。むしろ、虚心坦懐に映像を見つめれば、誰でもその人の教養程度などには関係なく、直覚的に何かを感じることが出来る映像なのである。本当は、タルコフスキーは、全然難解ではない。人々が、習慣的で通俗な映像を見させられるのに慣れきっていて、タルコフスキーの映像に刻印された時間の強度に慣れていないだけである。
じっさい、「鏡」という、彼の映画の中でも無、もっとも難解といわれる映画に対しても、ロシアの一般人が、タルコフスキーに手紙を書いてきて、その理解程度が深くて、タルコフスキーは驚き、映画をつくる勇気を与えられたそうである。一方、当局からは、難解な芸術映画のレッテルをはられていた。また、
批評家たちの高級ながら中身のない理論的評価に反発しているのも、いかにもタルコフスキーらしい。彼は、ああいう映画を作りながら、決して知的エリートを相手にしようとは思っていなかった。むしろ。一般人の中で、彼の映画に直覚的に反応する「精神的エリート」を期待し想定したようである。彼は、決して社会や庶民から遊離する映画作家ではなかった。むしろ、その逆なのである。
実際、この本には、そういうロシア大衆の、驚くべき洞察力の証拠の手紙が多数上げられている。一つだけ、一部引用してみよう。
「あなたに手紙を書いているのは、年金生活を送っている老人です。職業としては、芸術ともっとも遠く離れたところにいる人間ですが、映画には興味を持っています。(私はラジオ技師なのです。)
あなたの映画に、私は強いショックを受けました。あなたの天分は大人と子供の感覚の世界を洞察することであり、私たちをとりまく世界の美の感覚を呼び起こすことです。あなたが示すのはこの世界の偽りの価値ではなく真の価値です。あなたの天才はひとつひとつのものに演技をさせ、絵のひとつひとつの細部を象徴に変え、最小限の表現手段でもって哲学的な普遍性を手にしています。ひとつひとつのショットを詩と音楽で満たすのです。こうしたすべての特質は、あなたに、あなたの表現様式にのみ、固有なものなのです。」
例えば、芸術において絶望的な状況にある現代日本でも、どこかの高校で、むりやりタルコフスキーの映画を生徒全員に見させたら、きっと驚くべき反応が起きるはずだ。タルコフスキーの映画とは、そういう映画である。

既に、この記事は長くなってしまっている。しかし、語りたい事はまだまだ尽きない。以下、取りとめのない雑談を断片的に続けさせていただく。

タルコフスキーの求めるイメージとは、決して単純で一律的なものでない。「鏡」で使った、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ねずの木の前の若い婦人の肖像」を例示している。この絵からは、好感とも不快ともいえない、魅力的であると同味に悪魔的なイメージが同時に相互作用しながら矛盾なく同居している。(「モナリザ」にも言えることだ)そういうイメージの全体性をタルコフスキーは求めるというのだ。また、「鏡」の主演女優のマルガリータ・テーレホワにも、そういう性質あることを強調するために、この絵を使ったという。
それは、とてもよく分かる。あの鏡の女優というのは、なんとも不思議な魅力がある。精神的なところと官能的なところ、真面目なところと不真面目なところ、快活な明るいところと憂鬱室なところ、そのどちらとも取れる性格を内包しているように感じさせる女優である。というよりは、タルコフスキーがそういう側面を引き出すように、演技させ、撮っている。はじめ見たとき、なんとも魅力的な女優だと単純に思ったのだが、この部分を読んで、どういうことか理解できたような気がした。

「鏡」に対して、あのような個人的な映画をとることに、かなり批判があったそうである。それについて、タルコフスキーはこういう答え方をしている。本当に真実のイメージとは、個人に固有のものである。しかし、それは個に閉じこもるということではない、徹底的に個にこだわることが普遍につながるのだ。社会で公約出来るイメージなど、本当の力を持ちえない。私的なイメージを追及するのは、社会全体とつながるためなのだ。
かなり勝手な要約の仕方をしてしまったので、ちょっとタルコフスキーの言いたいこととは違うかもしれないが。例えば、小林秀雄の批評の姿勢とは、そういうものなのだと思う。

俳優に対して、「演劇」のように計算して役を組み立てる事を求めなかった。むしろ、そういう作為的な行為を徹底して排除するように求めた。タルコフスキー的映画観からすれば、当然ともいえる。「最終的には、俳優は、演ずることが不可能な心理状況におかれなければならない。」という。
そういうことが出来る俳優として、すぐ頭に浮かぶのは「ノスタルジア」のドメニコや「サクリファイス」のアレクサンドル役のE・ヨセフソンである。一方。タルコフスキーによれば、一番演劇的演技にこだわってのは、「惑星ソラリス」の主演男優との事。それはよく分かる。彼は確かにタルコフスキーの映画に向いていないと、最初に観た時から思った。本当にそう思ったのだ、映像とはおそろしいものである。

この本では、単なる映画論だけでなく、タルコフスキーのほとんど信仰告白とも言える部分が出で来る。あまりに率直なので、すこし戸惑いつつも共感し、動かさずには居られない。例えば、「アンドレイ・ルブリョフ」と関連して。
「もっとも激しく血を流しているその時代の腫瘍に触れ、自分自身の中にある腫瘍を除去することなくして、芸術家は時代の精神的理想を表現することはできないということだ。高次の精神的活動のために、冷酷な「低次の」真実を完全に自覚して、それを克服することにこそ、芸術の使命がある。芸術は、本質的にほとんど宗教的であり、高い精神的な義務にたいする神聖な自覚を求めるものだ。」
これぞ、タルコフスキー。

いくつか引用を続ける。
「芸術家が創造の自由について語っているとき、なんのことを言っているのか、私にはほとんど理解できないのだ。そのような自由がなにを意味するのか理解できないのである。私は逆に、創造の道に踏み込んだときから、われわれは果てしない必然性の鎖につながれ、自分自身の課題と、芸術家としての天命に束縛されているように思えるのだ。」
本当に自己を見つめ、本気で創造行為をしようとした男の言葉である。

「私が、みずからのうちに理想への郷愁をかかえ持ち、理想への憧れを表現しようとする芸術の擁護者であることを強調したいためである。私は「人間」に「希望」と「信仰」を与える芸術の味方なのだ。芸術家の語る世界が絶望的であるほど、その世界と対置される理想は、おそらく強く感じられるに違いない。そうでなければ、生きることはまったく不可能である。」
ベルイマンの映画と関連して。こういう「絶望的な世界」を、きちんと語る芸術が、健在ではどれだけ絶滅状態にあることか。逆に、世界の真実から、目をそむけ、偽りの快楽や幸福を安易に提供するものばかりである。
ベルイマンとタルコフスキーは、映画作家としては似て非なる。しかし、二人とも、確かにそういう感覚を持ち合わせている人たちである。その事が一番大切なことであって、彼らの映画を「芸術」的に分析したり鑑賞することに、一体何の意味があるというのだろうか。

タルコフスキーに感化されて、素面ではいえないような言葉を、私もつぶやきだしたので、そろそろやめよう。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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