2009年02月28日

タルコフスキーの「鏡」を再び観て




タルコフスキーの「映像のポエジア」を読んで、もう一度観たくなった。彼の映画についての考え方を知った上で観るというのは邪道なのだけれど、まあそういう細かいことは気にしないで。
やはり最初に観たときは、たとえタルコフスキーといえども無意識に「ストーリー」を期待してしまうので、「難解」と感じた。しかし、最初から「ストーリー」など拒否している映画と思えば、こんなに美しい映画もない。音楽を聴くように映画を観ればよいのだ。とはいっても、音楽と違って具体的な映像が目の前に確実にある。タルコフスキーの表現を借りれば、フィルムに「刻印された時間」である。その具体的な映像が、濃密な具体性を保持し続けたまま、具体性以外の何かを暗示し、具体性から飛翔しようとしながら、観念に離脱してしまわず、ギリギリの具体性を保っている。具体的な映像でありながら、同時にそうではない何者かを表現している。両者は対立して争っているのでなく、全く異質のものが同時に自然な形でフィルムに収まっているのだ。タルコフスキーの映画とは、つまるところ、そういうものなのだと思う。
この映画には、ドキュメンタリーフィルムが随所に挿入される。「映像のポエジア」で、戦争中に兵隊たちが集団で水の中を歩くシーンについてふれていた。
あの映像を撮った人間は、明らかに特別な感受性と芸術的センスをもつ人間だと。タルコフスキーは、膨大なドキュメンタリーフィルムを観て、ほとんどが駄目なものの中から砂金を探すように素晴らしいものを見つけ出して、この映画に使った。何も映画のために計算して作り上げるものだけが芸術映画ではない。現実の出来事をそのままうまく映されれば、それは最上の映画なのである。タルコフスキーはリュミエール兄弟の撮った車かな何かがこちらに走ってくるだけの短いフィルムにもそういう意義を見出している。だから、ドキュメンタリーフィルムの部分は、この映画に対する「挿入部分」なのではない。きわめて私的な記憶が執拗に映し出されるこの映画で、公的歴史を記録したドキュメンタリーフィルムは、全く同等の地位を与えられている。私的な記憶と歴史の記憶の深いところでの一致。
例えば、冒頭でドモリの少年を、目の力の強い少し魔女的なところのある中年女性が催眠療法で直そうとするフィルムが流れる。あれは、そもそも多分何かのドキュメンタリーフィルムなのか。タルコフスキーがモノクロで撮ったのかよく分からない。別にどちらでもよいのである。その映像は、タルコフスキーの母の記憶の私的物語へと、何の違和感もなくつながっていく。
タルコフスキーがこの映画を撮ろうとした際に、いつもコンビを組んでいるカメラマンに、そのような私的な映画を撮るのには賛成できないとして、仕事を断られたそうである。しかし、この映画はきわめて私的な映画であると同時に、普遍的な映画である。人の記憶というものは、本来それぞれごく私的なものである。共通にすくい上げられた普遍的な歴史的記憶は、観念的には意味を持っても、各個人にとっては決してリアルな生々しい意味を持ちえない。タルコフスキーがしようとしているのは、徹底的に個人的な主観的な記憶のイメージに沈み込んでいくことで、その基層に他の全ての人間とのつながりを見出そうとすることなのだと思う。だから、戦争を記録したドキュメンタリーフィルムも、脈絡なく挿入されても、なんら違和感がない。各個人個人の私的な記憶と、人類全体の記憶は間違いなくつながっている。人類全体の巨大な記憶の基層は、結局各個人にしか分からない生々しいイメージでしかありえない。そういう生きたものとしてしか、人間の記憶はありえないのだ。それを、タルコフスキーは、理屈ではなく、きわめて具体的な映像をフィルムに残すことで証明することに成功していると思う。
仕事を断ったカメラマンは、この「鏡」を見て素晴らしい映画だとほめたそうである。
「映像のポエジア」について私が書いた記事から一部再掲する。
タルコフスキーの求めるイメージとは、決して単純で一律的なものでない。「鏡」で使った、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ねずの木の前の若い婦人の肖像」を例示している。この絵からは、好感とも不快ともいえない、魅力的であると同味に悪魔的なイメージが同時に相互作用しながら矛盾なく同居している。(「モナリザ」にも言えることだ)そういうイメージの全体性をタルコフスキーは求めるというのだ。また、「鏡」の主演女優のマルガリータ・テーレホワにも、そういう性質あることを強調するために、この絵を使ったという。
テーレホワは、この映画では一切「演技」をしていない。この映画の中に、そのまま存在している。かといって、彼女の素のままをタルコフスキーはそのまま映しているわけではない。彼の主張するように矛盾するイメージの宙吊りな結合としてのイメージを明らかに創り出そうとしている。テーレホワは、実に様々な表情を見せる。生活に疲れたすこし冷たそうな母、意外に心の優しい女。我儘な女、繊細な女、気の強い女、傷つきやすい女、知的な女、官能的な女。様々なシーンで色々なイメージを与えるが、常にどこか謎めいているイメージ。そもそも、テーレホワ自身にそういう性質があるのかもしれない。しかし、それは基本的にタルコフスキーが望むイメージ、それは彼の女性に対する極私的な理想イメージとも関わりながら、男性にとって普遍的な意味を持つ女性のイメージとつながっているはずである。テーレホワは、決して一貫した役作りなどせず、その場その場でありのままの新鮮な形で存在している。タルコフスキーが、俳優に求めているのは、そういうことであり、彼女は立派に合格していると思う。
最後のシーンで、夫に息子が欲しいか娘が欲しいかといわれて、彼女はなんともいえない笑顔を見せる。映画のそこまでの部分では見せなかった種類の笑顔に目を奪われるが、しかし単なる明るい笑顔ではなく、何か別の意味も含んでいるような不思議な笑顔。
私は、はじめてこの映画を観た時に、ふざけてテーレホワが個人的にタイプだとか書いた。しかし、そういう馬鹿な私は、自分の軽薄な意識以外に、確かに彼女からそれ以上のものを感じ取っていたのだと、今自信を持って言える。
「映像のポエジア」を読めば、間違いなくタルコフスキー映画に対する理解は深まる。しかし、そうでなくても、ただ彼の映画をぼんやり眺めているだけでも、観るものの心の一番深いところに知らず知らずのうちに喰い込んできている。タルコフスキーの映画とは、そういうものである。そして、この「鏡」は、もっとも深いところに訴えかける力の強い作品だと思う。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2009年02月26日

小林秀雄全集 第三巻 私小説論

(私が使っているのは、現在の全集ではなく、すこし前のものです。)

小林が当時していた文芸時評の文章が中心である。さすがに時代の違いを感じて、少々退屈である。そういえば、初めて全集を読もうと思い立ってチャレンジした時も、この第三巻でつまらなくなって投げ出し、結局あとは興味のある批評文だけ読んだのを思い出した。今回はとにかく通読だけはしたのだが。

「私小説論」では、日本の私小説の西欧とは全く異なる事情について述べている。「私小説論」に引用されている久米正雄の言葉。
芸術が真の意味で、別の人生の「創造」だとは、どうしても信じられない。そんな一時代前の、文学青年の誇張的至上感は、どうしても持てない。そして、ただ私にとっては、芸術はたかがその人々の踏んできた、一人生の「再現」としか考えられない。
たとえばバルザックのような男がいて、どんなに浩瀚な「人間喜劇」を書き、高利貸や貴婦人やその他の人物を、生けるがごとく創造しようと、私にはなんだか、結局、作り物としか思われない。そして彼が自分の製作生活の苦しさをもらした、片言ほどにも信用が置けない。(中略)そういう意味から、私はこのごろある講演会で、こういう暴言すら吐いた。トルストイの「戦争と平和」も、ドストエフスキーの「罪と罰」も、フローベールの「ボヴァリー夫人」も、高級は高級だが、結局は偉大なる通俗小説に過ぎないと。結局、作り物であり、読み物であると。
これが当時の私小説作家の率直で正直な感想である。小林は言う。日本の私小説作家たちの「私」は、十分に社会化されてない「私」であり、そういう「私」に充足して私のことを書けばそれで事足りた。そして、私小説でない小説は、結局作り物にしか思えなかったのだと。一方、西欧の小説では、全く事情が異なる。作家たちは、十分に歴史の蓄積をそれぞれが抱えて社会的な「私」を体験している人たちで、彼らの小説はあくまでそういう背景の下に成り立つものである。日本では、そういう歴史的背景や意味が一切捨象され、その小説テクニックのみをそれぞれが勝手に受け入れてしまった。だから、本当の意味での影響など起こりうるはずもなかったと。
一方、マルキシズムの洗礼と社会の混乱により、今の作家は、技法的には稚拙だとしても、社会的な私というものを意識せずにはいられなくなった。それだけは確かだと。だから、昔のような「私小説」は、もはや書けない。しかしフローべールの「ボヴァリー夫人は私だ。」という公式がいき続ける限り、私小説は別の形で現れるだろうと。
というのが、おおよそ小林のいっていることである。とても分かりやすい。ところで、現代日本では事情はどうなのだろう。
とはいっても、私自身が、もうほとんど同時代の「小説」を読んでいないのだ。だから何も言えない。ますます人は小説を読まなくなったということぐらいしか言えないのだが、少なくとも本格小説のようなものが今時はやらないことだけは確かだ。
小林の言うように日本人の「私」は果たしてある程度社会化したのか。多分、そのこと自体が疑問なのである。当時はマルキシズムという嵐が吹きあれていたので、そういう錯覚に陥ったのかもしれないが、結局日本人は本当に思想を思想として受け入れることは結局回避したままだったのではないだろうか。私小説作家たちの前を、西欧の本格小説が通り過ぎていったのと同じように、マルクス思想も当時の知識人の前を通り過ぎていったのだと思う。
それは、決して昔の話ではなく、現在の我々自身の話でもある。どうしても社会化や理論化を拒む根強い「私」が日本では生き続けている。生き続けざるをえない。その「私」は、決してきっちりとした形を持たないがゆえに、フニャフニャとした柔軟で変幻自在な形を融通無碍に取り続け、いまだに生きている。現在の小説が、かつての私小説とは外見上全く異なるとしても、本質的には私をそのまま信仰する態度は無意識に生き続けているはずである。むしろ、現代では、誰も思想など信じていないので、そういう傾向は幼児的な形で蔓延している。
という、ありがちな日本人論をつい語ってしまったが、小林の私小説論を読んでいると、現在も本質的には事態が全く変わっていないと、多分誰しも感じざるをえないのではないかと思う。

サント・ブウヴについて語っている部分が面白い。ブウヴを語りながら小林自身の批評態度を語っているからだ。
「僕はもう長い間考えていることだが、僕らは批評する時に、他人を判断するよりはるかに多く自分を判断しているものだ。」この言葉は決して難しい言葉ではない。凡庸な批評家も同じことを言うのである。大事なのはどのような深さでサント・ブウヴは、こういう言葉を理解していたか、こういう言葉を吐くときに、彼はどのような苦さを味わっていたか、彼のいう「自分」とはどのような「自分」であったかということだ。
批評は常に冷静な観察であるとともに情熱ある創造である。そういう立場に批評家が立っていることは難しい。それは立場というようなものではなく、むしろ凡そ立場というものに関する疑惑を不断に燃やしていることに他ならないからだ。疑惑の中にこそ自由がある。それが批評精神の精髄である。サント・ブウヴはこれを毒といった。薄められた毒から人々はいろいろなことを学ぶであろう。しかし、真に学ぶとは毒を飲むことではあるまいか。

巻末には、小林の軽いエッセイがいくつか収録されている。なかなか面白い。要するに小林は単なる酔っぱらいである。坂口安吾の「教祖の文学」では、小林が水道橋の駅から墜落して九死に一生を得た話が紹介されている。安吾は言う、小林は理論的できっちりとした煮ても焼いても食えない人のような印象を文章から与えるが、実はオッチョコチョイだと。
ここでも、まったくスキーを滑れもしないのに山スキーをして転びまくりながら必死の思いで降りてきた話やら、横須賀線の連結台の上で小便をして車掌に酔っ払って悪態をついたり、飲み屋で酔って勝手に店の寿司ネタを握って客に出したり、酔って旅館と勘違いして他人の家に乗り込んで酒を飲んだり、若い時によくも分からず山歩きをして遭難しかかったり、色々笑わせてくれます。小林の批評の本質とどうつながるかはよく分からない。まあ、そんなものを無理につなげなくてもいいだろう。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 小林秀雄

2009年02月25日

ショスタコーヴィチ交響曲第七番十五番

ショスタコーヴィチ交響曲第七番ロジェストヴェンスキー十五番ムラヴィンスキー

ショスタコーヴィチ交響曲第七番「レニングラード」(ロジェストヴェンスキー=ソビエト国立文化省so.)

この第七番は独ソ戦に対する愛国心の表現として書かれたということになっていたが、ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」によると全く違う意味が込められていたという。
(この曲は)戦争の始まるずっと前に構想され、従ってヒットラーの攻撃に対する反応ではなく、「侵略の主題」は実際の侵略とは全く関係ない。この主題を作曲したとき、私は人間性に対する別の敵のことを考えていた。ヒットラーにより殺された人々に劣らずスターリンの虐政の犠牲となった何百万という人々の悲運を悼んで書いた。
ショスタコーヴィチの曲には、常に付きまとってくる隠されたテーマの問題が、一番分かりやすい形で現れている。
個人的には第一楽章で、「戦争の主題」が、ラヴェルのボレロのように繰り返して展開されて膨大な管弦楽に膨れ上がっていくところが好きである。あの「戦争のテーマ」は、その名前とは反して軽妙な魅力的なメロディーである。かといって、迫抜けに楽天的というのではなく、何かそこに隠された意味が秘められているような不思議な味わいがある。それは、ショスタコーヴィチの曲全てについて言えることだが。
タルコフスキーの「映像のポエジア」によると、魅力的なイメージというのは、一律的な意味がすぐ分かるようなものでなく、相反するイメージが共存して解釈不能ながら豊穣な内容を含んでいるものだという。ショスタコーヴィチの曲は、まさしくそういうものである。
この曲についても、スターリンへの抗議がこめられているとしても、そういう具体的意味を超越したイメージの力がなにより魅力である。ショスタコーヴィチの音楽には、そういう彼にしかない特別な性質があり、聴く者の心を離してやまないのである。それはあくまで純音楽的でありながら、同時に音楽的ではない意味も志向していながら、言葉の意味には堕さない緊張感を保っている。そういう類のない音楽である。
第七番は、大音響の巨大な壁画で、純音楽的な精緻さに欠けると評されることもあるが、そういうショスタコーヴィチ的な魅力は十分な曲だと思う。先述したように第一楽章のボレロ的な部分の不思議な味わい。
ロジェストヴェンスキーとソビエト国立文化省so.のコンビは、こういう巨大な音響を表現するのに最適のコンビである。ロジェストヴェンスキーは、何をやっても出て来る音が楽天的で、人間としての性質では常に深刻なショスタコーヴィチとは対照的ともいえる。しかし、あの精緻かつ膨大なスコアを余すことなく再現する能力ではずば抜けており、なおかつやはり「ロシア」のオケというのが、やはりきいている。個人の性質とは関係ない、深い民族的な共通性を感じずにはいられない。特に、巨大な音塊の部分は、ロシアのオケじゃないと決して出ない味わいがあると思う。
昔に輸入盤で、全ての交響曲を揃えたのだが、現在は入手が難しいようである。

ショスタコーヴィチ交響曲第十五番(ムラヴィンスキー=レニングラードフィル)

ショスタコーヴィチの最後の交響曲。ウィリアム・テルやワーグナーのリングを引用したりする不思議な曲である。ショスタコーヴィチの人生の回顧とも言われる。しかし、この曲についても、やはり相反するイメージが統合されて同時に矛盾しながら並存しているイメージということが言える。ある意味、ショスタコーヴィチのもっとも私的な意味合いが込められていながら、逆に最も普遍的なイメージを放射しているといえるかもしれない。個人的にも、一番好きな曲である。
たとえば、ワーグナーの引用にしても、曲想をそのまま生かしながら、それをどこか客観視して異化するような面があり、軽やかでいて深刻、真面目なようでいてどこかユーモラス、浅いようで深い、気軽なようで深遠という曲なのである。こうして言葉で説明するのが一番難しい曲である。
ムラヴィンスキー=レニングラードフィルは、この曲の構造を極端なくらい精緻にレントゲンのように再現する。しかも、それをすこしも機械的でなく、あくまで人間の芸術的な手作業として行うのである。きわめて硬質で甘いところが微塵もないのだが、決して音楽が死なずに微妙なニュアンスが常に息づいている。集中して耳を傾けていると、その完璧な演奏への意志に興奮せずにはいられない。
そして、なによりあの打楽器群によるラスト。人間が書いたもっとも美しい音楽の一つだと思う。
しかも、その打楽器群のパターンが、自らの第四交響曲からの引用なのだ!
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | クラシック

2009年02月19日

ザ・龍之介全小説全一冊



小林秀雄が芥川龍之介について書いているのを読んで、読みたくなり全作品を読んでみた。やはり面白い。
小林秀雄の芥川評価はきわめて厳しい。「芥川龍之介の美神と宿命」というごく初期の評論で論じている。
芥川自身の「僕はどういう良心もーーー芸術的良心さへ持っていない。が、神経は持ち会わせている。」(「僕は」)という一節をひいて、芥川はよく言われるように理知的作家ではなく神経によって人生を裁断しただけの作家と断じている。逆説によって人生を分析しようとするが、それをとことんまで突き詰めていくことはせず、逆説的な風景を繊細な神経によって描出することだけで満足したのだと。
例えばイエス・キリストの「心の貧しきものは幸いなり」という逆説豹発言は、逆説そのままが現実となるぎりぎりの逆説であるが、芥川の小説にはそのような切羽詰ったものはないのだと。
「ある日の大石蔵之介」「枯野抄」「お富の貞操」などの心理も決して深く突き詰めたものではない心理的風景画にとどまる。現実の相対性を徹底して突き詰めようとしないので、「一塊の土」のように現実を描こうとした小説でも、人間が図式的で本物の生々しいありのままの真実に欠けると。
小林が若い日に熱中していた西欧の小説家や詩人たちと比較すると、いかにも芥川が中途半端に見えたのだろう。それなのに理知的と評価されているに納得できず、中途半端な気取った知性にしか見えなかったのだろう。それは何となく分かる気がする。
ただ、小林は最後にこんなことを言っている。
今日読めば、何と思うだろうか。意外に古風な日本的詩人を発見して心動かされるかもしれない。

ところで私はどうかというと、そもそも小林のように「文学」や「芸術」にそんな真面目な期待など一切していないわけだ。だから、芥川ももっと自由気儘に楽しめる。こうしてまとめて読んでみると、やはりその筆力というのはすごくて、今時使わない表現を用いてみると「女子供が夢中に小説を読む」ように読んだ。特に初期から中期の作品には、文句のつけようのない作品としての力があるとおもう。
芥川が理知的だとか悪魔的だとか言うのは勿論間違いであって、まず感じるのはなんともいえない人柄のよさ、素直さである。
「杜子春」は「ありふれた人情」とか「古いモラリスト」とか酷評されたそうだが、昔から批評はそういうものなのかなと思う。なぜ、もっと素直に受け取れないのだろう。芥川が提出するイメージは確かに生きていて純粋である。それが人生を直視してないという面があるとしても、むしろ人生を見つめすぎて悲観的側面に目を取られてかえって人生が見えなくなるよりも、それよりもたとえ理想であっても明るいイメージの力を提示することのほうがよほど大事だと思う。そして、芥川にはそういう能力があると、少なくとも私は感じる。
「魔術」「父」「毛利先生」。どれも甘いといわれそうだが、私は大好きである。
「地獄変」「藪の中」「羅生門」のような系統の作品があるが、むしろそういう作品こそ本物とはいえない偽者の匂いをどこかにかぎとってしまう。不良ぶっているだけの普通の学生のように。

芥川は自殺してしまった。勿論痛ましいことである。「西方の人」「続西方の人」「侏儒の言葉」といった逆説的分析・箴言については、まさしく小林の批判が当てはまりそうだ。徹底した理論というよりも、常識の一回ひねり、気取りといった芥川の弱点が露骨に出てしまっていると思う。芥川の自殺は世紀末の悲劇とかいうようなことではなく、あくまで神経が実に繊細な男が、恐らくは肉体の病気を主要な原因として、自分を追い詰めって行ったということ以外に意味がないと思う。残酷な言い方かもしれないが。というのは、先に書いたように芥川にはもっと楽天的な人のよさというものがあって、それが本来の最大の長所だったと思うのに、その反対方向に進んで行ってしまっていたのが惜しいと思うからだ。しかし、やはりそういう言い方は人の人生に対しては礼を欠くのかもしれない。
晩年の作品では「ある阿呆の一生」や「歯車」はやはり良い。それは人生を語る深刻さによってではなく、やはり小説風景としての美しさのためだけれども。「ある阿呆の一生」の中で、この部分が忘れられない。
ある雪曇りに曇った午後、彼はあるカッフェの隅に火のついた葉巻をくわえたまま、向こうの蓄音機から流れてくる音楽に耳を傾けていた。それは彼の心持に妙に染み渡る音楽だった。彼はその音楽の了るのを待ち、蓄音機の前に歩み寄ってレコオドの貼り札を調べることにした。
Magic Flute―Mozart
彼は咄嗟に了解した。十戒を破ったモッツアルトはやはり苦しんだのに違いなかった。しかしよもや彼のように、・・・彼は頭を垂れたまま、静かに彼の卓子へ帰って行った。
十戒を破った苦しみの共有というよりは、芥川というのはあの魔笛序曲を聴いてそれが直覚的に分かるタイプの人だったということに私は感動するのだ。つまらないことだけれども。

芥川には確かにユーモアのセンスがあった。「鼠小僧次郎吉」の講談調など腹を抱える。「ねぎ」「好色」「馬の足」なども良い。もっと、そういう側面を追求して欲しかったと思う。
いわゆる歴史上の人物心理シリーズ。小林によれば、ああいうパロディのようなものは、全然その人物に届いてないということになる。しかし、最初からそんなことを期待しなければ面白い。一種のユーモア小説として読めばよいのだ。たとえ人間は描けてなくても、そこで芥川が発揮する手腕は絶妙である。「ある日の大石蔵之介」「俊寛」「枯野抄」「将軍」など、どれも作り物なのだが、そこに登場してくる人物たちが妙に生き生きしているのだ。芥川独特の人形的な人物創造術である。この際、人間が描けてないことなど、どうでもよろしい。
無論、根底には圧倒的な文章力があるのだが。あと、忘れがたいのは「蜃気楼」とか「海のほとり」という、なにもとも起こらない小説、一種の散文詩である。なんとも不思議にリアルな文章で、完全に文章だけで充足している。
芥川は短編作家だったが、やはり長めのものでも抜群の力量を感じる。未完に終わった「偸盗」もすごいし、「邪宗門」とか「アグニの神」とか、一種活動映画的文章の魅力がある。映像を想起させるのだが、文章だけに読む側が自由にイマジネーションを拡げていく余地がある。「影」などには、それこそヒッチコックの「疑惑の影」的な味わいがあると思う。まあ、そもそも小説の中で活動写真を語るという設定なのだけれども。
他にも言い出せばきりはないが、ちょっとした作品にもいいのがいくらでもある。「西郷隆盛」とか「お時儀」とか。

芥川というのは、現在の目で見ると日本の古来のよさのようなものが確かにあるのだが、勿論普通の意味での日本的感覚とは違うものを持っている人だった。「西方の人」を読むと、結局信仰とは無縁な人だったと分かるが、キリスト教に対してかなり真剣な思いを持っていたことは多分間違いないだろう。
「神々の微笑」というのは、芥川の「日本的なるもの」への感覚を知る上で重要な作品だと思う。日本へ布教に来たオルガンティノの前に不思議な老人が現れてあらゆる外来文化宗教の日本化について語る。キリスト教も日本的なるものに変容してその本質を失うであろうと。
ことによると泥烏巣デウス自身も、この国の土人に代わるでしょう。支那や印度も変わったのです。西洋も変わらなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れの中にもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明かりにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい・・・。
芥川は、そういう日本的なものに対してあきらかに違和的感覚を持っていたと思う。それは彼の小説が、当時の私小説とは全く違うだけでも分かる。全てをつつみこみ、一神教的な屹立するものを全て汎神論的に溶解してしまう正体の知れないモヤモヤとしたものに対するほとんど生まれ持っての反逆する感覚があったのではないかと思う。しかし西欧のキリスト教的な徹底的に突き詰めるという意志のようなものがあるというわけでもない。結局、小林秀雄の主張は正しいのかもしれない。
芥川のキリシタン物は、本来のキリスト教的なるものとは明らかに異なるだろう。実際、芥川は晩年「西方の人」で、明確なキリスト教への不信仰不適正を告白している。
しかし、そういうキリシタン物が、私には不思議なくらい魅力的なのだ。「きりしとほろ上人伝」の滑稽で一途な信仰、キリスト教ではないが「往生絵巻」のメチャクチャな浄土信仰。とてつもなくユーモラスであり暖かい。芥川の美質がよくでていると思う。
そして「奉教人の死」については・・。私はこれこそ芥川の最高傑作だと信じて疑わない。
これを甘いとかキリスト教徒は関係ないとか分かったような批評をする奴は犬にでも喰われろ!

:結局のところ、私は芥川との精神的親和性を勝手に感じるというのが結論なのだけれども・・。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評

2009年02月18日

「チャンス」のNGシーン

映画チャンスは、ピーター・セラーズ演じるチャンスがイエス。キリストのように水上を歩くシーンで終わるという仙人映画である。しかし、続きがある。セラーズが何度もNGを出してしまったシーンが、映画の最後におまけのようについている。今時のテレビのドラマNGシーン集みたいなものだ。
監督のハル・アシュビーがどういう人物だったかは知らないが、彼の有名な「さらば冬のかもめ」や「帰郷」とは、かなり毛色の違う映画である。ああいう終わり方をすることへの抵抗やテレがあって、NGシーンを付け足して現実に戻しておきたかったのかどうかは知らないが。
チャンスが生まれて初めて屋敷の外に出た時、何も本当に知らないので、黒人不良少年の群れに「庭師の仕事はないか」と聞いて、散々毒づかれる。少年達は自分たちの敵の差し金だと思い込んで「奴に伝え解け」とすごむのだが、チャンスはそれを覚えていて、大富豪の家にいた黒人医師にそれを伝えようとする。そして、ベッドに横たわりながら、次のようなセリフを言う。大真面目な顔をして。セラーズはその状況がおかしくて吹いてしまい、もう止まらなくなってしまったというわけだ。ある種の拷問ともいえる。なるべく忠実な?私訳とともに、以下にあげておこう。

Now get this honkie
You go tell Raffaello
that I ain’t taking no jive from western union messenger
you tell that ass hole
if he gets something to tell me,
get his ass down here himself
then he said
that I would get my white ass out there quick,or cut it.


てめえ、いいか、この白豚野郎。
ラファエロの野郎にこういっとけや。
ガキの使いを受ける気はねえってな。
あのケツの穴野郎にこういえ。
用があるなら、てめえののケツをここまでもってこいってな。
そして彼は私にこう言いました。
おめえもその白いケツの穴をすぐどかして消えうせねえとケツの穴を切り刻んでやるぜ。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2009年02月14日

「チャンス」 ピーター・セラーズ、ハル・アシュビー監督

(思い切りネタバレで書いています。)



ベッドである男が目覚める。いかにも上品で知性的な初老の紳士である。男は、おもむろにテレビをつける。シューベルトの未完成が流れる。男はチャンネルを変える。子供向きのアニメが映る。男は無表情ながらテレビを見つめ続ける。何か変だ・・。
男は実は知的障害を持っており、屋敷に庭師として住み続けていたが、主人が死んで屋敷から追い出される。男は生まれてはじめて屋敷の外にでる。
庭師チャンスは、「空っぽ」の人間である。それが、勘違いに勘違いを重ねられて、財界の大物のキングメーカーに気に入られ、大統領とも会い、その演説でも紹介され、テレビにも出演し、最後は大統領候補に担ぎ出されそうになる・・。
セラーズは、この映画の原作を読み、どうしても主役として映画を撮りたがり、その念願がかなった作品である。空っぽの器には何でも満たすことが可能だ。俗な人間のエゴなど一切存在しない。チャンスは静謐で気品にあふれる人物に「見える」。それが誤解の誤解を重ねて持ち上げられていく。そもそもセラーズ自身がそのような人物であった。固定的な自分の自己を持たない、フィルムの中の架空の息柄を生きることだけが本当に生きるという種類の人間だった。全くといって自己を持たない男が、フィルムの上で自己を持たない男を完璧に演じきる。いや、演じるのではなく、そのまま生きる。セラーズの遺言フィルム。

誰もがチャンスを非凡な人物と思い込む中で、重病のキングメーカーのランドの家に住みこむ医師のアレンビーだけが、チャンスの正体に気付く。リチャード・ダイサートが演じているが良い役者だ。フリッツ・ラングの「飾り窓の女」のエドワード・G・ロビンソンとちょっと雰囲気が似ている。ランドか死んだ時に、アレンビーはチャンスに尋ねる。――キミは、本当にただの庭師なのだね。と。チャンスは素直に肯定する。アレンビーはつぶやく。
―I understand.
しかし、もう一度、自分に問うように再びつぶやく。
―I understand?
ランドは、チャンスが屋敷に来てから一時的に元気を取り戻していた。チャンスは確かに静謐で暖かい人柄で、周りにいるあらゆる人間の心を穏やかにする。ランドは、チャンスと会ってから死ぬことがこわくなくなったという。そして、チャンスに見守られて心穏やかに静かに息を引き取る。
アレンビー医師は、一人だけ現実を見詰めている重要な役どころなのだが、その現実主義者の彼が疑問形で「私は本当に理解したのだろうか?」と自分に問う。この映画のテーマである。

チャンスはテレビを見ることだけが楽しみである。Watch TV.
ランド婦人のエヴァ(シャーリー・マクレーン)に言い寄られても、チャンスはテレビを見ることを優先する。エヴァは、チャンスの意志の強さと勘違いして、ますます尊敬するようになる。
映画では、アメリカの多種多彩なテレビ場面が効果的に使われている。画面上に何が起ころうと、静かに画面を見続け、全てを受け入れるチャンス。テレビだけではない、生の現実に対してもチャンスはただwatchし続ける。どんな騒ぎにも巻き込まれずに、静かに見つめ続けて受け入れる。
そうした姿勢が周囲のとんでもない誤解の過大評価を呼び、大統領候補にまでなるのだが、チャンスはそんなにことにはおかまいなしである。
仮にその勘違いに気付いたとしても、ドクター・アレンビーに習って、誰もが自分にこう問わざるを得ない。
―I understand?
実際誤解ではなかった。ラストシーンで、突然チャンスが、イエス・キリストのように水の上を歩く。そのシーンに合わせて、大統領が演説の声がかぶせられる。
――Life is a state of mind.
よくこんな映画をつくったものだ。

共演のシャーリー・マクレーンが著書「アウト・オン・ア・リム」の中でピーター・セラーズについて書いている。彼女が自身の神秘体験について率直に書いた本で、アメリカでは300万部のベストセラーになった。
セラーズは心臓に持病を抱えていて、この映画の撮影当時もペースメーカーをつけていた。セラーズはマクリーンに対して、自らの臨死体験を告白したという。
心臓の発作で病院に担ぎ込まれたとき、そういう自分自身を上方から見つめていた。医師が心臓に手荒なマッサージなどして蘇生させようとする様子を逐一見つめていたのだという。セラーズは、そのとき真上に信じられないくらい明るく美しい白い光を見る。一本の腕が光から出てきてセラーズはすがりつこうとしたら、その瞬間に心臓が蘇生した。上からの手が「時はまだ至っていない。戻って生を全うせよ。」と言ったそうである。
そして、セラーズはこの世に戻ってきた。
私には、マクレーンのような神秘主義の考えはないし、このセラーズの臨死体験が「本当」かどうかも知らないが。とにかく、そう本人が言ったということである。
さらにマクレーンの本から引用して終わりにする。これも、本当かどうかはともかくとして、セラーズがなぜあのように全ての役柄に成りきれたのかの一つの「説明」にはなると思う。
ピーターは演技のことや、役柄について話をし続け、自分が今までにやった役柄を、自分は前から知っているように感じていたということを話した。自分がその人物そのものであったという彼の気持ちは、非常に具体的で明確なものであるらしかった。
最初、私は、それが何のことだかわからなかったが、話を聞いているうちに、自分が演じた人物はいつか前世で自分がその者だったという話をしているのだということがわかった。
「まあ、あなたは前世を憶えていて、その時の経験や、感情を思い出しているということなの?」
と私は当然のことのように、話の調子を合わせた。
「だから、演技がお上手なのね。きつと、あなたの前世の記憶は普通の役者よりずっといいのよ。」
彼の目は、やっと誰か話のわかってもらえる人に会ったという喜びに輝いた。
「こんなこと、他の人にはなかなかわかってもらえないのですよ。人にこんな話をしたら、私が気違いだと思われるでしょう。」
「わかるわ。私もそのようなことは誰にも話しませんもの。でも、おそらくこういうことを信じている人はたくさんいるのではないかしら。」
彼は少しホッとしたようだった。



posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2009年02月13日

博士の異常な愛情−ピーター・セラーズ、スタンリー・キューブリック監督



キューブリックは、非現実的なコメディを、とことん美しい映像で撮ろうとしたのだろう。冒頭の核弾頭を積んだ米空軍機の映し方の見事なこと。そして、バックに流れる優美な音楽。悪夢のような馬鹿げた現実を夢のように美しい映像で包むアイロニーである。改めて、白黒のコントラスト設定、陰影の精緻さにうっとりした。
映画「ピーター・セラーズの愛し方」によると、キューブリックはこの映画の三役以外に、爆撃機のパイロットまでやらそうとしたそうである。セラーズは、ストレスに襲われて大爆発してしまったらしい。
結局は3役にとどまったのだが、そのどれについても、とてつもなく完成度が高い。オーラまで完全に違う。少し人がよくて気弱なイギリス将校、知的で毅然として品格のあるアメリカ大統領、そしてナチ出身のドイツのマッド・サイエンティスト。セラーズは、一人何役もするのはお手の物だったが、ここまで各キャラクターが昇華された形で完成されているのも珍しい。これなら三役で精一杯だったろうと納得できる。
もう少し「ゆるい」映画では、とんでもない数の役を演じている。たとえば、「マダムグルニエのパリ解放作戦」では、無責任なイギリス軍人、フランス軍の老大将。ヒトラー、ゲシュタポの親衛隊長、日本の皇太子!、アメリカ大統領とやり放題だった。セラーズの変化作としては、多分あれが最高なのではないかと思う。
この映画では、電話の一人会話シーンが、存分に生かされている。イギリス将校が、破壊された基地からアメリカ大統領に公衆電話をかけようとするシーンは腹を抱える。その際、基地の電話をまず使おうとして、受話器に線が全くついていないのは、ちょっとクルーゾー警部的である。「ピーター・セラーズの愛し方」によると、「ピンクの豹」の初登場シーンで回った地球儀に手を突いてこけたのはセラーズのアドリブだったらしい。このシーンも多分そうなのではないかという気がする。
電話シーンで白眉は、アメリカ大統領がロシア書記長と一人電話する場面である。本当にセラーズはうますぎる。電話先のロシアの酔っ払った男が目に浮かぶようである。
他にも、空軍大将の女性秘書がベッドルームで一人電話するシーンとか、大統領本部室で、海軍大将がその愛人の秘書と一人電話するところなど、とことん電話をうまく使っている。空軍大将のジョージ・スコットも、大変な怪演ぶりである。
それにしても、「ドクター・ストレンジラブ」の狂気はすごい。完全にピーター・セラーズの痕跡はなく、狂った科学者になりきっている。目からして完全に狂っている。最後のシーンでは。後ろに立っているロシア大使役が完全に笑ってしまっている。普通なら撮り直しだろうが、あまりに出来が良いので、キューブリックも目をつぶって使ったのだろう。
セラーズの完全に役に成りきる狂気と、キューブリックの全てに完璧を求める狂気が、幸福な結婚をとげた稀有な作品である。


posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2009年02月06日

タルコフスキー著「サクリファイス」(鴻 英良 訳)

タルコフスキーは、この小説を「ノスタルジア」の翌年に執筆したのだという。さかのぼってソ連時代に「ストーカー」に続く映画作品として構想していたそうである。
映画「サクリファイス」は様々に解釈できる作品である。私自身見たときに、これはきわめて高度な狂言なのではないかという、とても勝手な解釈をしたのだが、どうもタルコフスキーの意図は、もっと素直で直接的だったようである。私のような解釈は、タルコフスキーが最も嫌うタイプのものかもしれない。
そもそも、タルコフスキーが「映像のポエジア」で繰り返し言っているのは、映画に対して何か背後に隠されている象徴的な意味を探るべきではないということだ。また、そのように仕組まれた映画は、映画本来の表現に反すると。映像そのものが訴えかけてくるものを、見る人間が直覚的に感じ取り象徴的に解釈しないような、時間の強度をフィルムに定着している作品こそ、本当の映画だと。
例えば、タルコフスキー映画に頻繁に出現する水や雨は何の象徴かと、よく聞かれたそうだ。それに対して、タルコフスキーは、水は水、雨は雨なのだと答えている。あえて言えば、少年時代にロシアで実際に接した雨や水であって、そういう直接的な体験に裏付けられたものであって、決して何か象徴的な意味を装填しようとする意志は一切ないという。
あるいは、「ストーカー」の「ゾーン」やトンネルについても同様である。何か隠された意味などなく、ゾーンはゾーン、トンネルはトンネルである。
もしかすると、カフカの小説についても同じことが言えるのかもしれない。「城」は官僚機構の象徴なのではなく、単なる城かもしれないのだ。そんなつまらない象徴的解釈などより、カフカの文章が喚起する生々しいイメージの直接的な力がよほど大切なのである。カフカは言葉という象徴をまとわずにはいられない道具を使って、様々な象徴解釈が可能なように書きながら、一番象徴とは遠いところまで言葉を導いたのかもしれない。というのは、今思いつきで書いたのだが。
タルコフスキーの「サクリファイス」も、余計な象徴的解釈は必要とせず、そのまま受け取るべきなのだろう。私がわざわざこの小説を読んだのは、まさしくあの映画の象徴的解釈が知りたくてである。しかし、本書を読んでも、そのような期待は裏切られるだろう。情報自体としては、ほとんど映画に与えられる以上のものはない。勿論。映画には描かれていない部分もあるが、それは何か解釈のヒントになるものではない。
むしろ、「映像のポエジア」で、タルコフスキーは「サクリファイス」の解釈について語っている。あの映画は様々な解釈が出来るように作られている。例えば、信仰に興味がある人間は、アレクサンドルの祈りに映画の中心テーマを読み取るだろうし、超自然的な現象に興味がある人間は魔女マリアとのシーンが中心的な出来事になる。(サクリファイス制作の頃、タルコフスキーは、ルドルフ・シュタイナーに深い関心を持っていたという。)
さらに、映画の全ては主人公の心の病が生み出した幻想で、実際には何も起きていないと考える人もいるだろう、と。
こうした反応はどれも映画が示している現実と本質的にはなんの関係もない。
と、タルコフスキーは言い切っている。フィルム上に展開される、現実がそのままの意味を持つのであって、そこに何らかの隠しテーマが存在するというわけではないと。映画という表現に対する深い自身と誇りが言わせる言葉である。映画で起きていることを、もっと直截的に全て感じ取ることを、観客は期待されているのである。厳しい見方を求められているともいえるし、映画を見るという体験は結局そういうこととも言える。小説を読むのとは全く違うわけだから。
私自身も、基本的には「何も起こっていない」というタルコフスキーが一番嫌いそうな解釈をしていたわけである。かなりタルコフスキーを「素直に」見るタイプの私でもそうなのだ。しかし、無理やり自己弁護するならば、そもそも極端に真剣なものというのは、究極的には笑いを誘うものである。私は、アレクサンドルがマリアの家に自転車で向かう途中でこけるシーンで噴き出してしまって、以降全てがおかしくなってしまったわけだが、狂言というのは、そもそも真面目なものに笑いを見出そうということである(かどうかはよく知らないが)。タルコフスキーの映画のイメージや現実の流れを完璧に細心に受け止めながら、なおかつ笑うというのは(その笑いは、意味解釈による笑いでもなく、まして嘲笑的な笑いではなく、笑いそのものの本源に近い笑いである)、それほど、タルコフスキーの映画の見方としては間違ってはいないのではないだろうか。
閑話休題。
とはいっても、勿論タルコフスキーが映画をつくるにあたって考えていたことは存在する。それは映画タイトルが示している。「サクリファイス」(犠牲の精神)
である。それで十分だろうと。
「映像のポエジア」の終章で、タルコフスキーは、やや信仰告白気味に苛烈な現代文明批判を繰り広げている。現代の物質文明が人間の精神性を著しく阻害してしまったこと。社会と個人が激しく対立し、個人が社会という組織に従属することを余儀なくされている。また、個人は他人に対して何かを要求することこそあれ、他人に対して何かを与え譲ろうとはしない。その際必要なのは、自己犠牲、他人に尽くそうとする精神である。まさしく「サクリファイス」である。
さらに自由というのは、本来勝手な自己主張ではなく、自分が他者と関係することを認識しつつ、深くつらい内的精神的作業を経ながら、苦労して勝ち取るものだ。それはお気楽な幸福の状態とは全く異なる、苦悩を通過して得ることができる状態であって。自己主張の自由とは正反対の状態だろう。そのような自由は、何か特別な人間だけの特権ではなく、あらゆる人間が平等に可能性を有しており、なおかつ各個人が内的困苦を経なければ獲得できない状態である。現代においては、そういうことをしようとする人間がほとんどいないだけである。
そして、そのような自由を表現し、人々にインスピレーションを与えるものこそが芸術に他ならない。タルコフスキーにとっては、「映画」が、それをもっとも純粋に表現できる手段だった。
「映像のポエジア」の最後の部分。
最後に、読者を完全に信頼して打ち明けよう。実際人類は芸術的イメージ以外はなにひとつとして私欲なしに発見することはなかったし、人間の活動の意味は、おそらく、芸術作品の創造のなかに、無意味で無欲な創造行為のなかにあるのではないだろうか、と。おそらく、ここにこそわれわれが神の似姿に似せて作られている、つまり、われわれに創造する力があるということが表明されているのである。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画

2009年02月04日

タルコフスキー著「映像のポエジア」

タルコフスキーが二十年近く、折にふれて書いたり、インタビューを受けた内容を、場合によっては加筆訂正を加えて一冊の本にまとめたもの。
彼の映画に対する考え方でポイント、肝になっているのは、本の副題にもなっている「刻印された時間」である。映画は、言葉を使う文学と違って事実そのままをフィルムに定着する。「それ独自の事実のフォルムと表示のなかに刻み込まれた時間」が映画という表現方法の特徴である。それが、他のどんな種類の芸術とも異なる映画の特異な性質であり可能性である。そして、タルコフスキーは徹底してその映画の性質を純化追及しようとする。
従って、タルコフスキーにとって、余計なものを付け加えた映画はどんなに一見高級なものであろうと、批判の対象になる。フィルムに定着するためには、対象を、なるべくありのままにしかし最高に研ぎ澄まされた感性で「観察」する必要がある。「自然主義的な事実の固定だけではまったく不十分なのである。映画における映画的映像は、「観察」のかなたに、対象にたいする独自の感覚を提示する。」のである。例えば、エイゼンシュタインの「イワン雷帝」などは、映像に象徴としての意味を込めてしまって、直接的な観察から逸脱しているので否定される。一方、初期の「戦艦ポチョムキン」は、そうした生々しい「観察」がある映画として高く評価する。
他にも、色々多角的にタルコフスキーは映画を論じているが、要するに映画にのみ可能な表現方法から余計なものをそぎとったストイックな追求というのが、基本線である。文学的、あるいは演劇的な要素を、安易に映画に導入しようとすると、タルコフスキーは過敏なくらいに反応して拒絶する。
ある種の映画理論において「モンタージュ(編集)」が特権的な位置を占めることも拒否される。またも、エイゼンシュタインが例に引かれているが、監督のモンタージュにこめられた象徴的な意味の体系を、見る者が読解するように強いられるような映画は、映画の本質に反する。なぜなら、映画の特質とは、直接的な観察によるイメージをフィルムに定着することにあり、そのイメージの持つ力のみが、本当に見る人間の心を動かすことが出来るからだ。モンタージュによる意味の解読行為や操作は、知的遊びに過ぎず映画の本質からは逸脱している。したがって、タルコフスキーにとっては、「モンタージュはショットのなかの時間の圧力を考慮して断片を結合する手段なのだ。」ということになる。あくまで、フィルムに刻印された時間の強度が主役であって、モンタージュはそれらをつなぐ技術であり、決して中心的な創造行為にはなりえないということである。
このタルコフスキーの考え方に、理論的に反論することは可能だし、また必ずしも映画に対する唯一の考え方ではないかもしれないが、少なくともタルコフスキーの映画がこういう理念のもとに撮られていることだけは、彼の映画を見た者ならば、納得せずにはいられないだろう。タルコフスキーは難解と言われるが、それは知的な難解さというものとは一切関係ない。むしろ、虚心坦懐に映像を見つめれば、誰でもその人の教養程度などには関係なく、直覚的に何かを感じることが出来る映像なのである。本当は、タルコフスキーは、全然難解ではない。人々が、習慣的で通俗な映像を見させられるのに慣れきっていて、タルコフスキーの映像に刻印された時間の強度に慣れていないだけである。
じっさい、「鏡」という、彼の映画の中でも無、もっとも難解といわれる映画に対しても、ロシアの一般人が、タルコフスキーに手紙を書いてきて、その理解程度が深くて、タルコフスキーは驚き、映画をつくる勇気を与えられたそうである。一方、当局からは、難解な芸術映画のレッテルをはられていた。また、
批評家たちの高級ながら中身のない理論的評価に反発しているのも、いかにもタルコフスキーらしい。彼は、ああいう映画を作りながら、決して知的エリートを相手にしようとは思っていなかった。むしろ。一般人の中で、彼の映画に直覚的に反応する「精神的エリート」を期待し想定したようである。彼は、決して社会や庶民から遊離する映画作家ではなかった。むしろ、その逆なのである。
実際、この本には、そういうロシア大衆の、驚くべき洞察力の証拠の手紙が多数上げられている。一つだけ、一部引用してみよう。
「あなたに手紙を書いているのは、年金生活を送っている老人です。職業としては、芸術ともっとも遠く離れたところにいる人間ですが、映画には興味を持っています。(私はラジオ技師なのです。)
あなたの映画に、私は強いショックを受けました。あなたの天分は大人と子供の感覚の世界を洞察することであり、私たちをとりまく世界の美の感覚を呼び起こすことです。あなたが示すのはこの世界の偽りの価値ではなく真の価値です。あなたの天才はひとつひとつのものに演技をさせ、絵のひとつひとつの細部を象徴に変え、最小限の表現手段でもって哲学的な普遍性を手にしています。ひとつひとつのショットを詩と音楽で満たすのです。こうしたすべての特質は、あなたに、あなたの表現様式にのみ、固有なものなのです。」
例えば、芸術において絶望的な状況にある現代日本でも、どこかの高校で、むりやりタルコフスキーの映画を生徒全員に見させたら、きっと驚くべき反応が起きるはずだ。タルコフスキーの映画とは、そういう映画である。

既に、この記事は長くなってしまっている。しかし、語りたい事はまだまだ尽きない。以下、取りとめのない雑談を断片的に続けさせていただく。

タルコフスキーの求めるイメージとは、決して単純で一律的なものでない。「鏡」で使った、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ねずの木の前の若い婦人の肖像」を例示している。この絵からは、好感とも不快ともいえない、魅力的であると同味に悪魔的なイメージが同時に相互作用しながら矛盾なく同居している。(「モナリザ」にも言えることだ)そういうイメージの全体性をタルコフスキーは求めるというのだ。また、「鏡」の主演女優のマルガリータ・テーレホワにも、そういう性質あることを強調するために、この絵を使ったという。
それは、とてもよく分かる。あの鏡の女優というのは、なんとも不思議な魅力がある。精神的なところと官能的なところ、真面目なところと不真面目なところ、快活な明るいところと憂鬱室なところ、そのどちらとも取れる性格を内包しているように感じさせる女優である。というよりは、タルコフスキーがそういう側面を引き出すように、演技させ、撮っている。はじめ見たとき、なんとも魅力的な女優だと単純に思ったのだが、この部分を読んで、どういうことか理解できたような気がした。

「鏡」に対して、あのような個人的な映画をとることに、かなり批判があったそうである。それについて、タルコフスキーはこういう答え方をしている。本当に真実のイメージとは、個人に固有のものである。しかし、それは個に閉じこもるということではない、徹底的に個にこだわることが普遍につながるのだ。社会で公約出来るイメージなど、本当の力を持ちえない。私的なイメージを追及するのは、社会全体とつながるためなのだ。
かなり勝手な要約の仕方をしてしまったので、ちょっとタルコフスキーの言いたいこととは違うかもしれないが。例えば、小林秀雄の批評の姿勢とは、そういうものなのだと思う。

俳優に対して、「演劇」のように計算して役を組み立てる事を求めなかった。むしろ、そういう作為的な行為を徹底して排除するように求めた。タルコフスキー的映画観からすれば、当然ともいえる。「最終的には、俳優は、演ずることが不可能な心理状況におかれなければならない。」という。
そういうことが出来る俳優として、すぐ頭に浮かぶのは「ノスタルジア」のドメニコや「サクリファイス」のアレクサンドル役のE・ヨセフソンである。一方。タルコフスキーによれば、一番演劇的演技にこだわってのは、「惑星ソラリス」の主演男優との事。それはよく分かる。彼は確かにタルコフスキーの映画に向いていないと、最初に観た時から思った。本当にそう思ったのだ、映像とはおそろしいものである。

この本では、単なる映画論だけでなく、タルコフスキーのほとんど信仰告白とも言える部分が出で来る。あまりに率直なので、すこし戸惑いつつも共感し、動かさずには居られない。例えば、「アンドレイ・ルブリョフ」と関連して。
「もっとも激しく血を流しているその時代の腫瘍に触れ、自分自身の中にある腫瘍を除去することなくして、芸術家は時代の精神的理想を表現することはできないということだ。高次の精神的活動のために、冷酷な「低次の」真実を完全に自覚して、それを克服することにこそ、芸術の使命がある。芸術は、本質的にほとんど宗教的であり、高い精神的な義務にたいする神聖な自覚を求めるものだ。」
これぞ、タルコフスキー。

いくつか引用を続ける。
「芸術家が創造の自由について語っているとき、なんのことを言っているのか、私にはほとんど理解できないのだ。そのような自由がなにを意味するのか理解できないのである。私は逆に、創造の道に踏み込んだときから、われわれは果てしない必然性の鎖につながれ、自分自身の課題と、芸術家としての天命に束縛されているように思えるのだ。」
本当に自己を見つめ、本気で創造行為をしようとした男の言葉である。

「私が、みずからのうちに理想への郷愁をかかえ持ち、理想への憧れを表現しようとする芸術の擁護者であることを強調したいためである。私は「人間」に「希望」と「信仰」を与える芸術の味方なのだ。芸術家の語る世界が絶望的であるほど、その世界と対置される理想は、おそらく強く感じられるに違いない。そうでなければ、生きることはまったく不可能である。」
ベルイマンの映画と関連して。こういう「絶望的な世界」を、きちんと語る芸術が、健在ではどれだけ絶滅状態にあることか。逆に、世界の真実から、目をそむけ、偽りの快楽や幸福を安易に提供するものばかりである。
ベルイマンとタルコフスキーは、映画作家としては似て非なる。しかし、二人とも、確かにそういう感覚を持ち合わせている人たちである。その事が一番大切なことであって、彼らの映画を「芸術」的に分析したり鑑賞することに、一体何の意味があるというのだろうか。

タルコフスキーに感化されて、素面ではいえないような言葉を、私もつぶやきだしたので、そろそろやめよう。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。