2009年01月29日

小林秀雄全集 第二巻 ランボオ・Xへの手紙

小林の書いた「小説」を読むことが出来る。観察癖に優れた神経の細かい人の文章である。自身、若い時に一種の神経衰弱的な状態に陥ったことを言っているが、そういう心理状態を反映した一種現実離脱遊離感のある味わいが出ている。ただし、文章としてのうるおいとか魅力ということについては、率直に言って欠けている。この第二巻にはランボオの訳詩も収録されているが、やはり同じことが言える。私は本当に若い時にしか西欧詩を読まなかったから、よくは分からないが、文庫で読んだ他の人間のランボオ訳と比べると、やはり文面から受けるうるおいというものに決定的に欠けているという印象がある。
要するに、小林は小説家には向いていなくて、やはり批評家だということである。とにかく自分で小説も書いてみようとしたことが大切なのであって、出来はどうでもよろしい。小林流に言うなら、宿命の「主調低音」を自身でしっかり確認できたというだけで十分だろう。
有名な「Xへの手紙」は、やはり面白い。「創作」と分類されているが、まさしく手紙、告白文、批評文であって、創作というのとは、ちょっと違う。小林が若い時に自分を追い詰めていた一種異常な心理状態について、かなり具体的に書いている。
人々はめいめいの心の奥底に、多かれ少なかれ自分の言動を映し出す姿見を一枚持っている。言うまでもなく私達の行動上の便利のためだ。別に俺には便利だとは思えないと感じ出したのはいつの事か知らないが、俺の持っている鏡はむやみと映りがよすぎる事を発見したとき、鏡は既に本来の面目を紛失していた。このささやかな発見が、どんな苦痛と悪徳をもたらすものであったか、俺に知れよう筈はなかった。
以来すべての形は迅速に映った、俺になんの相談もなく映し出される形を、俺はまたなんの理由もなく眺めなければならなかった。なんのことわりもなくカメラ狂が一人俺の頭の中で同居を開始した。叩き出そうと苛立つごとに、彼は俺の苛立った顔を一枚づつ撮影した。疲れ果てて観念の眼を閉じてみても、その愚かしい俺の顔はいつも眼前にあった。
複雑な抽象的な思考に耽っていようと、ただ立小便をしていようと、同じようにカメラは働く。凡そ俺を小馬鹿にした俺の姿が同じように眼前にあった。俺にはこの同じようにということが堪えられなかった。何を思おうが何をしようが俺には無意味だ。俺はただ絶えず自分の限界を目の前につきつけられている事を感じた。夢は完全に現実と交錯して、俺は自分のすることにも他人の言うことにも信用が置けなかった。この世に生きるとはむせかえる雑踏を掻き分ける様なものだ、しかも俺を後から押すものは赤の他人であった。さまよい歩いて夜が来る、きれぎれの眠りは俺にも唯一の休息ではあったが、また覚めねばならせぬ眠りとはどうにも奇怪に思われた。
引用が長くなったのをお許しいただきたい。この部分は昔初めて読んだときから忘れられない一節なので。一種の自己分裂の状態なのだが、徹底的に自己分析をしようとすれば、恐らく誰でもこのような奇怪な状態に陥る。自分を明らかにしようとする作業の過程で、どんどん自己の姿が収拾がつかなくなっていき、徹底的に断片化無意味化されていく。その自己喪失の極限点で、今までの偽りの自己像が一挙に崩落し、本物の自己認識に至る。その状態では、自己への固執や狭隘な主観はなくなり、他人との真の客観的な関係性を持てるようになる。自己が完全に新しい形で再生されるのだ。
というのは、今私が勝手に加えてみた解釈であって、多分小林の体験とは関係ない・・。
ただ、この「Xへの手紙」というのは、この第二巻にも収められているヴァレリーの「テスト氏」の影響も相当感じられる。その影響というのは、かなり血肉化していて、小林自身の言葉かヴァレリーの言葉が、どちらかよく分からないくらい混ざっているし、またどこまでが小林の個人的体験に基づくのか、どこまでが考え出して書いているのかが分からないような書き方をしていると思う。やはり「創作」と呼ぶのが正確なのかもしれない。
とはいえかなり個人的体験が色濃く反映されているのは確かで、例えば中原中也とある女性との三角関係、あるいはマルキシズムの強大な影響下での社会と個人の関係の問題等。しかし、それらの問題を決して単純に理論化しようともせず、かといって個人の実感感覚の域にとどまらず語ろうと努めていると思う。「女のみが自分の成熟するところだった」というのは、取りようによっては通俗もいいところなのだが、女性との関係というものを、単なる理性で理解できるものでもないし、単なる感情だけの世界だけでもない、完全に二人だけの微妙な生き生きとした世界として把握しているのだ。吉本隆明が、「共同幻想」でも「個人幻想」でもない、「対幻想」というレベルを設定しているが、小林にとっての「女」というのは、そういう一種別の確固たる位相として捉えられているのだろう。
社会と個人の関係、極限における思想のありについても、説得力のあることを言っていると思う。社会や思想に安易に服従したいという誘惑にも負けず、かといって個人の領域に安易に逃避するのでもない、緊張感のある立場を常に貫こうとしている。言うまでもなく、決して古くさい問題ではない。

富永太郎、中原中也、ランボオ、ボードレールが登場する。小林の影響で、どれもある程度は読んだ。富永太郎の強靭な散文詩は鮮烈だったし、中原中也の異様に生々しいイメージ喚起力、ボードレールの場合は「悪の華」よりも「パリの憂鬱」のコメディ的作品の側面が好きだった、等なんとも懐かしいが、こうして改めて読むと、昔のように素直に感情移入して読めない。なんというか、小林の「青春」の気恥ずかしさのようなものを、どうしても感じてしまうのだ。でも、青春というのは誰でも基本的には恥ずかしいものである。小林だって例外ではない。自分は年をとったというだけのことだ。ランボオについては、小林の訳詩で主要作を読めるのだが、昔読んだときと同様何かを確かに感じるのだが、正直言ってはっきりとは理解できない。いまだに。
むしろ、小林が翻訳しているのでは、ヴァレリーの「テスト氏」が、面白かった。ヴァレリーの作り出した、この人間とも幽霊ともつかぬ異様な化け物というのは確かに魅力的だ。昔読んだときは観念的な遊びにしか思えなかった。こちらについては、年をとることで、ある程度は理解できた。
posted by rukert | Comment(1) | TrackBack(0) | 小林秀雄
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