2009年01月16日

小林秀雄 「手帖T」

 自分の本当の姿が見つけたかったら、自分というものを一切見失うまで、自己分析をつづけること。中途でやめるなら、初めからしないほうが有益である。途中で見つける自分の姿はみんな影に過ぎない。
 自分というものを一切見失う点、ここには確定的な線が引かれているように思う。こちら側には何物もない、向こう側には他人だけがいる。自分は定かな性格を全く持っていない。同時に、他人はめいめい確固たる性格であり、実体であるように見える。かういう奇妙な風景に接して、はじめて他人というものが自分を映してくれる唯一の歪んでいない鏡だと合点する。
 この作業は見たところ信じ難いようだか、少なくとも私にはほんたうの事であった。

そう、自己分析というのは、中途半端にやると常に自己欺瞞に終わる。それが、どのような高尚な精神分析の意匠をまとっていようと同じことである。他者のみが自己を教えてくれるような状態にまで自分を追い込むこと。それが本当の自己分析というものである。
このこととは言うのは易しいが実践するのは大変な難事だ。少なくとも私はいまだに全然出来ていない。本物の完成された人格者とか悟った宗教者ででもなければ到達することは難しい境地なのだ。私は、そのことを理屈としては知っている、完璧に認識している。しかし、実際には全然身についていない。少なくとも全く自分を認識できていないことに気づいてない人間よりは、なんぼかマシだという程度である。
小林は、どうやら本当にそのような経験をしたらしい。自分をほとんど神経衰弱にまで追い込みながら、そういう自己点検の作業をやりぬいたようなのである。なぜ、皆はそのことに驚かないのだろう。マルクスに対する精緻な読みなどよりも、少なくとも私にはそのことのほうがはるかに驚きだ。昔からそう思っていた。そういう作業を身をもって人体実験して行った男だから、ああいう普通でないマルクスの読解も可能なのである。分かりきったことだ。
このことについては「Xへの手紙」で、さらに具体的に詳しく書いている。
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ピンクパンサー2  (ピーター・セラーズ、ブレイク・エドワーズ監督)



ピンクパンサー2 The Return of the Pink Pantherは前作「暗闇でドッキリ」以来、実に十一年ぶりに撮られた。ウィキペディアによると、セラーズと監督のエドワーズの関係が必ずしも良好ではなかったために、これだけ長期間のブランクになったそうである。
1975年の作品で、全二作とはやはりかなり肌あいが異なる。前作までがどちらかというと古典的な定番喜劇だったのに対し、本作はかなりドタバタ喜劇の性質が強まってくる。個人的には、前ニ作の古いタイプの笑いが好きなのだが、改めてみてみたら、やはりかなり笑ってしまった。
電話を修理するだけで、ルームサービスでホテルの部屋を掃除するだけで、ホテルで風呂に入るだけで、いちいちいちいち大修羅場と化すのである。ありえねえ。馬鹿馬鹿しくてよろしい。とても分かりやすい笑いである。
セラーズの変装で秀逸なのは、プレイボーイに扮するところ。思いっきり分かりやすいタイプのプレイボーイになりきり、それがとことんかっこ悪いのだ。服装、趣味、喋り方等あらゆる点で最低である。完璧だ。「キミの瞳に乾杯」と真顔で言うところは、マドンナ役でなくても、そりゃ噴き出してしまいますわ。
あのヘンテコな英語も徹底してきて、それはもう分かりやすく発音を間違えまくる。字幕をつけるのも大変そうだ。登場キャラクターも、ドレフュス警部、その片腕のフランソワ刑事、ケイト−他、レギュラーとして定着。
ただ、ドタバタ度では、その後のピンクパンサー3、4でどんどんエスカレートしていく。ピンクパンサーシリーズの分岐点過渡期の作品ともいえそうだ。本作では、まだ映画としてのストーリ展開へのこだわりがあるのだが、3や4では、もう完全に吹っ切れて笑わすことだけ考えている。
ちなみに、セラーズの扮するプレイボーイの名前は、ギィ・ガドボア。すごい名前です。ネーミングだけで笑わせてくれます。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画
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