2009年01月06日

小林秀雄「批評家失格 T」他

小林秀雄「批評家失格 T」

探るような目はちっとも恐かない。私が探り当ててしまった残骸をあさるだけだ。和やかな目は恐ろしい、何を見られるかわからぬからだ。
気分をかえようと散歩に出かける気で、自分の心を点検している人がいる。他人にも自分にも迷惑はかけず、恐ろしく精密に自分の心を点検している人がある。
 だが、優れた作品にただよ心は、決して点検された心ぢゃない。日を
送ってきた心だ。生きて来た心だ。どんなに点検された心と見えようとも、それは反吐がでるほど自分を可愛がった心だ。いとほしくなるほど自分を憎んだ心だ。

 どんな切実な告白でも、聴手は何か滑稽を感じるものである。滑稽を感じさせない告白とは人を食った告白に限る。人を食った告白なんぞ実生活では、何の役にも立たぬとしてしても、芸術上では人を食った告白でなければ何の役にも立たない。
 優れた作品はみな人を食っている。どんなにらおとなしく見える作品でも人はちゃんと食っている。そこには人世から一歩すさった眼があるのだ。暫く人間を廃業した眼があるのだ。
 作品の現実とはいつも象徴の現実である。

小林には、当時流行していた俗流心理主義に対する、抵抗嫌悪が常にある。
最初の引用は始めて読んだ時もすごく印象に残って覚えていた。現代日本のネット上も「探るような眼」ばかりで、「和やか目」にお目にかかることなどまずない。何かを批判して自分が賢いと思い込みたいという現代病。いや、日本病。
自己観察自己分析の欺瞞もその通り。どんなに自分を厳しく観察しようとしても、自己愛か自己憎悪にたどり着くだけだ。自己の真実は他者との関係性の中でしか見出せない。
「人を食った告白」というのは存外難しい。ネットのおかげで「告白」はあふれかえっているが、「滑稽」どころかただただ悲惨な見時メッタらしいものばかり。何かいてもいいけど、もっと読む人間を楽しませてくれよ。内容の問題じゃない、内容はどんな悲惨な告白でもいいのだ。問題は告白の「仕方」「様式」だ。他者不在の一方的な垂れ流しの告白など誰が聞きたがるだろう。そして、そういう告白に、何の興味もなく、これまた自己主張だけでの反応。

「批評家失格 U」

「あいつは、ああいふ奴さ」といふ。甚だ厭な言葉である。だが、人を理解しようとしても、その人の行動や心理を、どんなに分析してみたところが、最後につき当たる壁は、「あいつは、ああいう奴さ」といふ同じ言葉であるから妙である。
「子を見るに親に如かず」といふ。わかる親もあれば、わからぬ親もいるといふ風に考えれば一向につまらないが、オヤが子をどういう風に見るかと思えば面白い。私といふ人間を一番理解しているのは、母親だと私は信じている。母親が一番私を愛しているからだ。愛しているから私の性格を分析してみることが無用なのだ。私の行動が辿れないことを少しも悲しまない。悲しまないから決してあやまたない。私といふ子供は「ああいふ奴だ」と思っているののである。世にこれほど見事な理解といふものは考えられない。

この世の真実を、陥穽を構えて、捕へようとする習慣が、私の身についてこの方、この世は壊血症の歌しか歌わなかったはずだったが、その歌は、いつも私には、美しい、見知らぬ情欲を持っているものと聞こえたのだ。
で、私は、後悔するのが、いつも人より遅かった。

はるか昔の小林初期の文章を読んでいると、まるで現代日本のことを語っているかのようだ。いかに他人を普通に理解できていないか。「ああいふ奴だ」と簡単に深く理解してやれていないか。

「批評について」

一体大変大きな軽蔑というものは、大きな愛情と紙一重のものなのかも知れないが、さういふ高級な面倒な問題を言ふのではない。私たちの間での-軽蔑などといふものはそんな大げさなものぢゃない。ある批評家が、ある作品を軽蔑する。だが、彼の心持に、決して激しいものも積極的なものも豊富なものもあるわけでもない。さいうふ人の軽蔑は、ただ己の貧寒を糊塗する口実に過ぎない。貧寒な精神が批評文を作るとき、軽蔑的な口調で述べればえらそうに見えるだけの話だ、もっともえらそうにも見えはしないが、兎も角批評文の体裁を整のへる上に軽蔑口調は便利なだけの話なのだ。だから、心から軽蔑したいなどと思っている人はいないので、みんなうっかりほめたりするとお里を見透かされさうなものだから軽蔑などして済ましている、ところがまずいことにはこの心根が見透かされている。

これもまた、現代日本のネット上の言説について述べているようではないか。
日本的なケチなプライド。他者を軽蔑してみせることで自分がそうではないと証明したいだけのさもしい根性。その実本人には何も内容などないのだ。ただ世間体で自分が馬鹿にされたくないだけ。えらそうに一見理性的に批判しているようでいて、実は明晰な理性の光など全く存在しない。激しい感情もない。ただ微温的な世間知が薄汚く空気のように漂っているだけ。
そういう異種独特な日本的精神風土は、本当にやりきれない。有名な某巨大掲示板の欠点も、あそこに表面上みてとれる悪意ではなく。むしろ根本的な悪意の不在、裏を返せば愛情の欠如、そして自己防衛に汲々としているだけど世間智だけによって成り立つ貧困この上ない精神の問題である。

「逆説といふものについて」

或る時、芥川龍之介を崇拝している人に、芥川氏をどう思うかと聞かれて、三十面下げて道徳とは左側通行といふ事である、などと平気で書けるようなロマンチストは大嫌いだよ、と答えてその人に大変厭な顔をされたことがある。

小林は芥川に対する評価が、とてもからい。他にも乃木将軍をモデルにしたといわれる「将軍」をあげて、ああいう戯画化というのは巧みに見えるが全然人間の本質に届いていないと小林は断じている。「芥川氏のような半知的作家」とまで言い切っている。
言いたいことはよく分かる。しかし、実は私は芥川氏のそういう甘いロマンティストの側面。理知的で辛らつな様でいて全然そうじゃないところにどうしようもなく惹かれるのだ。
今更芥川を、なんと言うか真剣に評価しようなどという義務など全くなしに読める身としては、小林が欠点としてあげていることは、私には全て芥川の美質のように思える。
例えば「杜子春」という作品は、当時甘いといって批判されもしたそうだが、私はあれこそ芥川らしい名作だと思う。もともとああいう作品を書きたい人だったのだと思う。たまたま神経衰弱で自殺したが、本来はああいう死に方をするする必要など全然なかった人ではないかと思う。「地獄変」のような作品もあるが、あれも心底恐ろしいというわけではない。本当に残酷で救いのない精神を持つ外人の不良作家たちとは全然違う。そういう芥川が好きで何が悪いのだと、私は開き直りたいのだ。
小林の言うとおり、例えば「枯野抄」での芭蕉の弟子たちの心理分析も実に浅薄だ。でも、その浅薄さが楽しいのだ。
なんだか、ちゃんと芥川を褒めることが出来ていないような気がするので、このことについては小林が芥川のことを本格的に論じた文章を扱うときに改めて書こうかと思う。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 小林秀雄
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