2009年01月30日

映画「ピーター・セラーズの愛し方」



一応はピーター・セラーズの伝記映画である。どこまで本当かという問題は常にある、多分、大筋の事実では本当、ディテールの描き方はデタラメの創作なのではないだろうか。まあ、映画なんだからその辺はうるさくは言わないが、やはり、セラーズ・ファンとしては楽しく見られるという種類のフィルムではない。
でも、私はもっぱらセラーズの私生活について知りたかっただけなのだし。一応、大筋として多分事実に基づいていそうなことを、映画から推測して列挙してみよう。

かなりマザコン気味の人物で、かなり年齢がいくまで強烈な個性の母親の強い影響下にあった。
「美しい女性」が大好きで、四人の女性と次々に結婚。基本的に下半身には余り人格がなかった人らしい。
いつまでも大人に成りきれず、自分を抑制することが出来ず、ストレスがたまると大爆発して、家族等周囲に迷惑をかけることがあった。
映画の撮影現場でも、かなり主張が強かったらしい。クルーゾー役は、本人はあまり気に入っておらず、シリーズ監督のブレイク・エドワーズとは、対立関係にある場合も多く、常にゴタゴタしていたらしい。
自分の性格というものを持たない空っぽの容器のような人物で、だからあれだけ色々な役に完璧になりきれた。
「チャンス」だけは、自分でも、どうしても撮りたい演じたい映画だった。

正直言って、私は「チャンス」の庭師役の印象が強烈過ぎるので、もしかしたら私生活でも聖人のようなタイプだったのではないかと想像していたのだが、きわめて人間的だったようである。
要するに「空っぽの容器のような人間」ということなのだろう。固定した自己や自我を持たないので、どんな役にもなりきれる。しかし、大人としての人格をきちんと形成していないので、常に子供っぽい側面が残る。また、自身の欲求や感情にはとことん素直に従い、またそのスケールや強度が人並み外れて大きい人だった。だから、どんな役をやっても、あれだけ振幅の大きい強烈なイメージを人に与えることが可能なのだろう。母親との関係も、そういう大人に成りきらない、自我を固定化しないための必要条件であり、十分条件である。
というような心理分析は容易だが、そういう作業はむなしい。ただ、セラーズのあの役への成りきりの秘密、個人的資質というものはある程度理解できたような気はした。しかし、言うまでもなく、重要なのはセラーズが普段どんな人物だったかということではなく、セラーズがスクリーン上でどのように演じきり、どのように見えたかということだ。
ファンとしては、そういうセラーズを堪能するだけのことである。
ブレイク・エドワーズとの関係も興味深い。例えばマイルス・ディヴィスとテオ・マセロの関係のような、常に悪態をつき合いながら信頼しあっているような間柄とも似ている。ただ、違うのは、セラーズセラーがあまりクルーゾー役を気に入っていなかったらしいということだ。
セラーズが本当に演じたかったのは「チャンス」の庭師だった。あれは本当に素晴らしい。まさしく「空っぽの器」が「空っぽの人物」を演じきった稀有な例なので。
しかし、客観的にみてやはりクルーゾーも、それに劣らず素晴らしい役柄創出である。本人が嫌がっていようがなんだろうが、結果的にフィルムに定着された姿や他人の評価のほうが確かなのだ。もしあんな馬鹿げた役とセラーズが思っていたとしたら、それはやはり彼らしい子供っぽさの素直な表現である。馬鹿らしい役だろうが、それより重要なのはクルーゾーという世にも稀な個性の表現である。それを、対立関係にありながら共犯的に作り上げたエドワーズはやはりえらいのだ。
スタンリー・キューブリック(役)も登場する。彼は勿論映画監督としての格が違いすぎる。映画としての質だけで言うと、セラーズ作品では「博士の異常な愛情」が突出している。エドワーズもキューブリックと比べてしまったら、それは気の毒だ。でも、あのクルーゾーというのは、やはりセラーズを支えたエドワーズの見事な創造行為だったと思う。馬鹿馬鹿しいキャラクターなので、なかなかそういうことが見えにくいかもしれないが。
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2009年01月29日

小林秀雄全集 第二巻 ランボオ・Xへの手紙

小林の書いた「小説」を読むことが出来る。観察癖に優れた神経の細かい人の文章である。自身、若い時に一種の神経衰弱的な状態に陥ったことを言っているが、そういう心理状態を反映した一種現実離脱遊離感のある味わいが出ている。ただし、文章としてのうるおいとか魅力ということについては、率直に言って欠けている。この第二巻にはランボオの訳詩も収録されているが、やはり同じことが言える。私は本当に若い時にしか西欧詩を読まなかったから、よくは分からないが、文庫で読んだ他の人間のランボオ訳と比べると、やはり文面から受けるうるおいというものに決定的に欠けているという印象がある。
要するに、小林は小説家には向いていなくて、やはり批評家だということである。とにかく自分で小説も書いてみようとしたことが大切なのであって、出来はどうでもよろしい。小林流に言うなら、宿命の「主調低音」を自身でしっかり確認できたというだけで十分だろう。
有名な「Xへの手紙」は、やはり面白い。「創作」と分類されているが、まさしく手紙、告白文、批評文であって、創作というのとは、ちょっと違う。小林が若い時に自分を追い詰めていた一種異常な心理状態について、かなり具体的に書いている。
人々はめいめいの心の奥底に、多かれ少なかれ自分の言動を映し出す姿見を一枚持っている。言うまでもなく私達の行動上の便利のためだ。別に俺には便利だとは思えないと感じ出したのはいつの事か知らないが、俺の持っている鏡はむやみと映りがよすぎる事を発見したとき、鏡は既に本来の面目を紛失していた。このささやかな発見が、どんな苦痛と悪徳をもたらすものであったか、俺に知れよう筈はなかった。
以来すべての形は迅速に映った、俺になんの相談もなく映し出される形を、俺はまたなんの理由もなく眺めなければならなかった。なんのことわりもなくカメラ狂が一人俺の頭の中で同居を開始した。叩き出そうと苛立つごとに、彼は俺の苛立った顔を一枚づつ撮影した。疲れ果てて観念の眼を閉じてみても、その愚かしい俺の顔はいつも眼前にあった。
複雑な抽象的な思考に耽っていようと、ただ立小便をしていようと、同じようにカメラは働く。凡そ俺を小馬鹿にした俺の姿が同じように眼前にあった。俺にはこの同じようにということが堪えられなかった。何を思おうが何をしようが俺には無意味だ。俺はただ絶えず自分の限界を目の前につきつけられている事を感じた。夢は完全に現実と交錯して、俺は自分のすることにも他人の言うことにも信用が置けなかった。この世に生きるとはむせかえる雑踏を掻き分ける様なものだ、しかも俺を後から押すものは赤の他人であった。さまよい歩いて夜が来る、きれぎれの眠りは俺にも唯一の休息ではあったが、また覚めねばならせぬ眠りとはどうにも奇怪に思われた。
引用が長くなったのをお許しいただきたい。この部分は昔初めて読んだときから忘れられない一節なので。一種の自己分裂の状態なのだが、徹底的に自己分析をしようとすれば、恐らく誰でもこのような奇怪な状態に陥る。自分を明らかにしようとする作業の過程で、どんどん自己の姿が収拾がつかなくなっていき、徹底的に断片化無意味化されていく。その自己喪失の極限点で、今までの偽りの自己像が一挙に崩落し、本物の自己認識に至る。その状態では、自己への固執や狭隘な主観はなくなり、他人との真の客観的な関係性を持てるようになる。自己が完全に新しい形で再生されるのだ。
というのは、今私が勝手に加えてみた解釈であって、多分小林の体験とは関係ない・・。
ただ、この「Xへの手紙」というのは、この第二巻にも収められているヴァレリーの「テスト氏」の影響も相当感じられる。その影響というのは、かなり血肉化していて、小林自身の言葉かヴァレリーの言葉が、どちらかよく分からないくらい混ざっているし、またどこまでが小林の個人的体験に基づくのか、どこまでが考え出して書いているのかが分からないような書き方をしていると思う。やはり「創作」と呼ぶのが正確なのかもしれない。
とはいえかなり個人的体験が色濃く反映されているのは確かで、例えば中原中也とある女性との三角関係、あるいはマルキシズムの強大な影響下での社会と個人の関係の問題等。しかし、それらの問題を決して単純に理論化しようともせず、かといって個人の実感感覚の域にとどまらず語ろうと努めていると思う。「女のみが自分の成熟するところだった」というのは、取りようによっては通俗もいいところなのだが、女性との関係というものを、単なる理性で理解できるものでもないし、単なる感情だけの世界だけでもない、完全に二人だけの微妙な生き生きとした世界として把握しているのだ。吉本隆明が、「共同幻想」でも「個人幻想」でもない、「対幻想」というレベルを設定しているが、小林にとっての「女」というのは、そういう一種別の確固たる位相として捉えられているのだろう。
社会と個人の関係、極限における思想のありについても、説得力のあることを言っていると思う。社会や思想に安易に服従したいという誘惑にも負けず、かといって個人の領域に安易に逃避するのでもない、緊張感のある立場を常に貫こうとしている。言うまでもなく、決して古くさい問題ではない。

富永太郎、中原中也、ランボオ、ボードレールが登場する。小林の影響で、どれもある程度は読んだ。富永太郎の強靭な散文詩は鮮烈だったし、中原中也の異様に生々しいイメージ喚起力、ボードレールの場合は「悪の華」よりも「パリの憂鬱」のコメディ的作品の側面が好きだった、等なんとも懐かしいが、こうして改めて読むと、昔のように素直に感情移入して読めない。なんというか、小林の「青春」の気恥ずかしさのようなものを、どうしても感じてしまうのだ。でも、青春というのは誰でも基本的には恥ずかしいものである。小林だって例外ではない。自分は年をとったというだけのことだ。ランボオについては、小林の訳詩で主要作を読めるのだが、昔読んだときと同様何かを確かに感じるのだが、正直言ってはっきりとは理解できない。いまだに。
むしろ、小林が翻訳しているのでは、ヴァレリーの「テスト氏」が、面白かった。ヴァレリーの作り出した、この人間とも幽霊ともつかぬ異様な化け物というのは確かに魅力的だ。昔読んだときは観念的な遊びにしか思えなかった。こちらについては、年をとることで、ある程度は理解できた。
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2009年01月28日

小林秀雄「手帖U」他

小林が引用している他の人の言葉で素晴らしいと思ったものをそのままいくつか抜き出しておく。どれも、私が下手なコメントを付け加えたりする必要などないものである。

「手帖U」
昨年の「新潮」十月号で、岸田國士氏の「劇団左右展望」といふ文を読んだが、そのなかに大変面白く思った一節がある。
「凡そ世界の演劇史を通じて、最も偉大かつ高貴なるモニュメントとして残るものは、チェホフの戯曲と能楽の舞台であろうとは、私のかねがね信じるところであるが、前者は、戯曲の生命に、はじめて決定的な文学的表現を与え、それを今日まで生かしている点、後者は、同じく、舞台の幻像が、最も単純な姿を以って最も深きに達している点、共に比類なき芸術と呼ばるべきものであって、何れも、東西演劇の原始精神が、期せずして、後世、見事な花を開いたとも云えるのだが、私は、この二つの例を並べてみて、全て、純粋なるものに共通な特質といふものをはっきり見出しえるような気がするのだ。」


「「夜間飛行」の序文中の私の言葉に、多くの批評家たちが、とやかくつっかかってきた。言葉といふのは「私は、私としては心理的に非常に重要な、次の様な逆説的真理を、著者サン・テクジュペリが表明してくれたことをありがたく思う。すなわち、人間の幸福は、自由の裡にはない、義務の容認の裡にある、という真理だ」という言葉である。そこで私は声を大きくして言う。この真理には何等逆説的なものはない、それどころか、久しい以前から認められ許されて来た(少なくとも当事者の間では)ものだ、ただこの真理を会得するのに、私には大変長い時間を要したといふその点が逆説的なのだ。ところでまた、この私の事情が当事者になぜ合点がいかないかといふと、個人主義といふものの極限にこの真理を発見するといふこと、その事こそ逆説的な事だからだ。私は出来ればかう付言したいと思っている、この真理が当事者に逆説的と映らないのは、彼らがそもそもこの真理を真に理解していないからだ、どの程度に受け入れるか、どのくらいのところまで味到するかによって、この真理の面貌は一変するのだ、と。自分を見出しては又見出すというところに、生きた真理はあるので、因習というものは、真理の形骸しか得させまいと、私たちを誘っているものだ。」(Andre Gide; Pages de Jounal)


「手帖 W」
恋愛を信用する人にも、軽蔑する人にも、兎も角観念的な現代人にとっては、素朴すぎるために大変理解し難い言葉。
「マルカがある男性が好きで、その男と結婚したとしても、彼女は大して誤ってはいない。恋愛とは、概して真赤な虚偽である。心的個人的分析的一面を過度に誇張したものです。もし女性がある男が好きで、その男が立派な男であったなら、彼女が恋しているよりもはるかにましですよ。恋愛の虚偽が必ず伴ってくる嫌悪すべき空想的完成の満足感を各自勝手に主張などせずに、そして結婚後も単に一個の男性と女性として、親切に接したならば、恋愛結婚の生む雑草とは違って強固な根を植えつけるでせう。もし貴方が親しい感情のもてる男を見出し、その男も貴方には親切であると知ったなら、結婚するんですね。恋愛なんか捨ててしまって。批判も自我もそこに沈めてしまう親しい心持で結婚できるならば、結婚なさい。
(引用中略)
人生のAからZまで知っている男性を、物欲しげな目つきで男性を探し回ったり、今後はしてはなりませぬぞ。他の文字は皆見落としていて、AとZを知っているかも知れない男もいます。――中の実を忘れて卵の殻を知っているように。一片の心の焔を求めなさい。アルファやオメガよりもはるかに良いものだ。人の心にある暖かさを尊重なさい。」(「D・H・ロレンスの手紙」、織田正信氏訳)

「梶井基次郎と嘉村磯多」

改めて小林の梶井基次郎評を読んでみると実に的確である。また読んでみたくなった。梶井の小説は、実に繊細な神経の表現なのだが、全然衰弱してなくて生々しく、動物的な生命感と言っても良いリアルな存在感があるのだが、そういうところを小林はさすがにきちんと見抜いている。
葛西善蔵や嘉村磯多については、この小林の批評に影響されて昔読んでみたことがある。二人とも、どうしても他人とうまくいかないように生まれついているような孤独な魂で、きわめて主観的な私小説なのだが、そういうところに偽りのない文章の真実の読み取って見逃さない小林独特のものの見方が面白いと思う。初期の小林は、特に観念的な嘘偽りに過度に敏感なところがあるので、当時流布していた虚飾の文学よりも、こういうものの方がよいというところもあったのかもしれない。
梶井の読みにしてもそうだが、決して観念的にならない対象の本質にじかに迫ろうとする態度なので、批評が古くならないのだと思う。
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2009年01月23日

ピンクパンサー4(ピーター・セラーズ、ブレイク・エドワーズ監督)



ピンク・パンサー4 – Wikipedia

ピーター・セラーズの最後の出演作。一応セラーズ不在でシリーズはつくられ続けるが。
ドタバタコメディ、悪乗り路線の完成作である。完全にシリーズとして練れてきて、各キャラクターの個性が分かりやすく固まっている。
シリーズ中に役を変化して登場するグレアム・スタークは変装指南のボールズ教授役。「暗闇でドッキリ」で初登場したときとは別人のような、おふざけキャラに立派に成長した?
セラーズの変装も、もう恥ずかしさをかなぐり捨てて、馬鹿馬鹿しさを極限まで追求するに至っている。女装してキ印と間違えられ、名脇役フランソワには死んだと思われメチャクチャ言われ、ケイトーの経営する売春宿ではドタバタの大騒ぎなど、とにかく分かりやすい。見る側が期待するところを臆面なくやりきっている潔さがあるのだ。シリーズ中の典型的な作品として一般に安心しておすすめできる一本といえる。
ヒロイン役はダイアン・キャノン。ドタバタ喜劇にふさわしいキャラクターの女優で、体当たり演技で健康なお色気を惜しげなく振りまいている。個人的にちょっと勘違いしたのだが、「チャーリーズ・エンジェル」のファラ・フォーセット・メジャーズとも、ちょっと感じが似ている。
ハーバート・ロムのドレフュスも健在。彼の上役との会話シーンも、相変わらず実にうまい。クルーゾーか死んだとおもいこんで葬儀をするのだが、その弔辞をドレフュスが読めと上役に言われる。無論ドレフュスは必死に断る。クルーゾーのために精神病になったのだから当然だ。しかし、上役がとどめの言葉を言う。
「署長夫人がスピーチを書いたのだ」。と。
直後、ドレフュスの泣き出さんばかりの顔のアップが映し出される。弔辞を読む場面は、ピンクパンサーシリーズ史上、いやコメディ映画史上の名シーンである。クルーゾーを褒め称える内容のスピーチをドレフュスは、錯乱して泣きながら読む。それを人々は、ドレフュスが悲しんでいると解釈して泣くのだ。ここでのロムの演技は完璧である。字幕だけでは伝わらない、一語一語の発音の仕方、動作を堪能したいシーンである。
最後はセラーズとキャノンが語り合いながら夜道を歩いていく静かなシーンで終わる。ケイトーのバート・クウォークも今回は乱入しない。これがセラーズの最後の作品だと知っているかのように。
結局は、このピンクパンサーシリーズを支えているのは、ピーター・セラーズの役者、人間としての格の高さや気品なのだと思う。


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2009年01月22日

ピンクパンサー3(ピーター・セラーズ、ブレイク・エドワーズ監督)



ピンク・パンサー3 – Wikipedia
ストーリー等はウィキペディアを参照されたい。というか色々よく知っている人が書いていて、あまり付け足すことがなくて困る。
そう、ドレフュス役のハーバート・ロムがオルガンを弾くシーンがあるが、それは彼自身が主演した「オペラ座の怪人」のセルフ・パロディなのである。テレビで見たことがあるが、実に本格的正統派の演技だった。もともと実力派の俳優なのである。そういう人が本気でやっているから、あれだけおかしいのだ。
本作は、クルーゾーとドレフュスの対決そのものがテーマになっていて、娯楽作に徹している。最後に直接対決する場面の、二人の笑いの演技、特にロムの笑いっぷりは見事だ。まさしくあの笑い声が、演出上使われている笑気ガスとなって我々観客に襲いかかり、一緒に笑い出さずにはいられないのだ。
このシリーズの場合、いろいろなシーンやキャストの焼き直しや使いまわしも見物の一つである。
例えば、いきなり冒頭からドレフュスが精神分析医と会話するシーンがあるが、あれもおきまりのパターンである。ある作品では分析中に激情に襲われて、分析医の首を絞めて殺してしまったりする。あのロムのやり取りのうまさ、味。笑いながら演技を堪能する。本当に達者な役者だ。
屋敷の使用人を集めて尋問するシーンは、「暗闇でドッキリ」の名シーンの焼き直しだ。ただ、本作はもっと過激に馬鹿らしくなっていて、グランドピアノを叩き壊すなど、やりたい放題である。基本的にシリーズが進むに従って無茶する度合いがエスカレートしていくという法則がある。
執事の気難しい男が、実は夜は女装して歌姫に変身するシーンも良い。実に見事な裏声なのだが、それを聞き入るセラーズの憤懣やる方ないという表情もよろしい。
ケイトーとの格闘シーンもますます派手になってくるが、おかしいのはクルーゾーがせむし男の変装をするのに対し、ケイトーが「オマエは誰だ」と気付かない(フリをする)わざとらしさ白々しさの見事なこと。
今回見ていて、以前には面白さに気づかなかったのは、最後のロシアのスパイとのベッドシーン。セラーズの、ベッドインまでのもたつきよう、画の作り方、音楽など、こんなに間抜けで面白かったっけ。
ウィキペディアでも触れている通り、グレアム・スタークが毎回別役で登場する。もともと「暗闇でドッキリ」で、クルーゾーの間抜けな部下として登場していて、どちらかというと抑制的な演技だった。が、回を重ねるに連れて、彼も役者としての本性をあらわして、セラーズ顔負けの羽目のはずし方である。
ちなみに、スタークのホテルボーイに対して、クルーゾーが名乗る偽名は「ギイ・ガドボワ」、ピンクパンサー2で登場した、アホプレイボーイの変装の名前である。なぜかクルーゾーのお気に入りなのだ。
というようなことを、シリーズマニアは楽しんでみることが出来るようになっている。
本作は、セラーズ以上に、ハーバート・ロムが主役と言ってもいい作品であった。


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2009年01月16日

小林秀雄 「手帖T」

 自分の本当の姿が見つけたかったら、自分というものを一切見失うまで、自己分析をつづけること。中途でやめるなら、初めからしないほうが有益である。途中で見つける自分の姿はみんな影に過ぎない。
 自分というものを一切見失う点、ここには確定的な線が引かれているように思う。こちら側には何物もない、向こう側には他人だけがいる。自分は定かな性格を全く持っていない。同時に、他人はめいめい確固たる性格であり、実体であるように見える。かういう奇妙な風景に接して、はじめて他人というものが自分を映してくれる唯一の歪んでいない鏡だと合点する。
 この作業は見たところ信じ難いようだか、少なくとも私にはほんたうの事であった。

そう、自己分析というのは、中途半端にやると常に自己欺瞞に終わる。それが、どのような高尚な精神分析の意匠をまとっていようと同じことである。他者のみが自己を教えてくれるような状態にまで自分を追い込むこと。それが本当の自己分析というものである。
このこととは言うのは易しいが実践するのは大変な難事だ。少なくとも私はいまだに全然出来ていない。本物の完成された人格者とか悟った宗教者ででもなければ到達することは難しい境地なのだ。私は、そのことを理屈としては知っている、完璧に認識している。しかし、実際には全然身についていない。少なくとも全く自分を認識できていないことに気づいてない人間よりは、なんぼかマシだという程度である。
小林は、どうやら本当にそのような経験をしたらしい。自分をほとんど神経衰弱にまで追い込みながら、そういう自己点検の作業をやりぬいたようなのである。なぜ、皆はそのことに驚かないのだろう。マルクスに対する精緻な読みなどよりも、少なくとも私にはそのことのほうがはるかに驚きだ。昔からそう思っていた。そういう作業を身をもって人体実験して行った男だから、ああいう普通でないマルクスの読解も可能なのである。分かりきったことだ。
このことについては「Xへの手紙」で、さらに具体的に詳しく書いている。
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ピンクパンサー2  (ピーター・セラーズ、ブレイク・エドワーズ監督)



ピンクパンサー2 The Return of the Pink Pantherは前作「暗闇でドッキリ」以来、実に十一年ぶりに撮られた。ウィキペディアによると、セラーズと監督のエドワーズの関係が必ずしも良好ではなかったために、これだけ長期間のブランクになったそうである。
1975年の作品で、全二作とはやはりかなり肌あいが異なる。前作までがどちらかというと古典的な定番喜劇だったのに対し、本作はかなりドタバタ喜劇の性質が強まってくる。個人的には、前ニ作の古いタイプの笑いが好きなのだが、改めてみてみたら、やはりかなり笑ってしまった。
電話を修理するだけで、ルームサービスでホテルの部屋を掃除するだけで、ホテルで風呂に入るだけで、いちいちいちいち大修羅場と化すのである。ありえねえ。馬鹿馬鹿しくてよろしい。とても分かりやすい笑いである。
セラーズの変装で秀逸なのは、プレイボーイに扮するところ。思いっきり分かりやすいタイプのプレイボーイになりきり、それがとことんかっこ悪いのだ。服装、趣味、喋り方等あらゆる点で最低である。完璧だ。「キミの瞳に乾杯」と真顔で言うところは、マドンナ役でなくても、そりゃ噴き出してしまいますわ。
あのヘンテコな英語も徹底してきて、それはもう分かりやすく発音を間違えまくる。字幕をつけるのも大変そうだ。登場キャラクターも、ドレフュス警部、その片腕のフランソワ刑事、ケイト−他、レギュラーとして定着。
ただ、ドタバタ度では、その後のピンクパンサー3、4でどんどんエスカレートしていく。ピンクパンサーシリーズの分岐点過渡期の作品ともいえそうだ。本作では、まだ映画としてのストーリ展開へのこだわりがあるのだが、3や4では、もう完全に吹っ切れて笑わすことだけ考えている。
ちなみに、セラーズの扮するプレイボーイの名前は、ギィ・ガドボア。すごい名前です。ネーミングだけで笑わせてくれます。
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2009年01月15日

ピンクパンサー「暗闇でドッキリ」(ピーター・セラーズ、ブレイク・エドワース監督)



ピンクパンサー・シリーズ中、個人的には最も好きな作品である。なんてったってピーター・セラーズが、これでもかこれでもかと最初から最後まで古典的に格式高く馬鹿馬鹿しくボケまくるのである。たまりません。
登場シーンからして、「これがアホの顔です」という表情を完璧につくって画面に現れるのである。そして、車から降りるといきなり泉に落ちる。「アァー」という間抜けそのものの声で。
ジョージ・サンダース演じる大富豪とのビリヤードのシーンでも、いちいちいちいちこれでもかこれでもかというくらいボケ続ける。また、あのジョージ・サンダースが無表情で冷たく奇異な生き物を眺めるようにセラーズのアホぶりを見守り続けるのがたまらない。最後はドアと間違えて壁に頭をゴツンとぶつけるのだが、怒ったように「この建物の設計者には精神分析の必要があーる」とかわけの分からない捨て台詞をはくのである。あのヘンテコな発音の英語で。
他にも、得意の変装で尾行捜査をしようとするたびに逮捕されたり、ヌーディストキャンプから真っ裸でマドンナと車で帰る破目になったりと、名場面の連続である。
本作では「あの」ハーバート・ロムのドレフュス警部が登場。クルーゾーの上司なのだが、アホのクルーゾーがメチャクチャな捜査を繰り広げる上に、しかもクルーゾーの言うことが正しいかもしれない。登場第一作で既にクルーゾー憎しで精神を病んでしまう。この後のシリーズでは、ただクルーゾーを殺すためだけに悪の帝国を築き上げたりして、どんどんエスカレートしていくわけだが。
ピンクパンサー4で、ドレフュスがクルーゾーの弔辞を読む羽目になる場面は、コメディ映画史上でも有数の名シーンだろう。ハーバート・ロムのドレフュスは、ピーター・セラーズのクルーゾーと同クラスの奇跡である。本当に素晴らしい役者だと思う。怪演である。
最後に容疑者全員を集めてクルーゾーが犯人推理をするシーンも実によく出来ている。例によっていちいちいちいちボケるわけだが、ソファーから転げ落ち、大富豪夫人に「この間抜け」と言われて、
「私のやっていることは全て綿密に計算してのことなのです、奥様。」
と強がりを言うのだが、恐ろしいことに、ここでセラーズは本当のことを言っているのだ。セラーズの名人芸を堪能しようではないか。
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2009年01月13日

ピンクの豹(ピーター・セラーズ他、ブレイク・エドワース監督)



ピーター・セラーズのファンである。ピンク・パンサーシリーズをはじめ、キューブリックの「博士の異常な愛情」、「マダム・グルニエのパリ開放作戦」等々、そして、ハル・アシュピーが撮った「チャンス」という不思議な映画。
彼はコメディアンであると同時に偉大な役者だった。「チャンス」で共演したシャーリー・マクレーンの証言によると、なぜあれほどまでにもどんな役にも完全に成りきれるのかと聞かれて、その役の人生を実際に生きたことがあるような気になれるという意味のことを答えていたそうである。役者ということをこえて、人間として何か特別なものを感じさせる俳優である。
ピンクパンサーのクルーゾー警部といえば、ピーター・セラーズである。どちらが本物の人格が分からないくらい、まさに役柄になりきっている。
このピンクの豹はシリーズ第一作。主演はデビッド・ニブンなのだが、完全にセラーズが主役をくってしまっている。怪演であり、この後はセラーズが主役のシリーズが何作も撮られることになる。監督はオードリー・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」なども手がけた名匠ブレイク・エドワース。従ってコメディなのだけれども、映画としてのクウォリティもきわめて高い。
とにかくセラーズが、古典的にこれでもかこれでもかとボケ倒すのである。いきなり地球儀を回したのを忘れて手をついてこけるシーンで登場。古典的ボケもいいところなのだが、その表情、動作、発声等完璧である。余計な小細工などしなくても十分笑わせることが出来るのだ。当然、チャールズ・チャップリンやバスター・キートンと名前を並べられてしかるべき人である。
クルーゾー婦人役のキャプシーヌが、セラーズと息のあったところを見せていて、とてもよい。ベッドで彼女が夜眠れないと言うと、クルーゾーがいつもの手を使おうと言い、キャプシーがあわててやめさせようとする。何をするのかと思ったら、セラーズが、とてつもなく下手糞なヴァイオリンをギーギーやりだす。ライトがついた時のキャプシーヌの「カンベンしてちょうだい」という表情に腹を抱える。間男二人を部屋に隠してセラーズと演じるシーンは、芸術的な小劇である。いかにもフランス風の美女なのだが、ぶっちゃけて言ってしまうと、ああいう「いーい女」(志ん生のように力んで発言すること)がコメディを真剣にやっているのを観ているだけで、もう満足である。
ちなみに、ウィキペディアを見ると、ダーク・ボガードが生涯唯一回プロポーズした女性だとか(断った)、重度の鬱病でマンションから転落死したとか、興味深いエピソードがのっていた。色々問題の指摘されるウィキだけれども、手っ取り早くこうした情報が得られるのは、やはりすごいことではある。
あと、仮装パーティのシーンで、シマ馬に仮装した警官が出てくるが、あの声というのは次作以降レギュラーとして登場するケイト−のような気がして仕方ないのだが、どうだろう。結局着ぐるみを着たまま終わるのだが、あの存在感はすごい。
とにかくコメディの古典的名作。一度は見る価値のある作品だと思う。


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2009年01月06日

小林秀雄「批評家失格 T」他

小林秀雄「批評家失格 T」

探るような目はちっとも恐かない。私が探り当ててしまった残骸をあさるだけだ。和やかな目は恐ろしい、何を見られるかわからぬからだ。
気分をかえようと散歩に出かける気で、自分の心を点検している人がいる。他人にも自分にも迷惑はかけず、恐ろしく精密に自分の心を点検している人がある。
 だが、優れた作品にただよ心は、決して点検された心ぢゃない。日を
送ってきた心だ。生きて来た心だ。どんなに点検された心と見えようとも、それは反吐がでるほど自分を可愛がった心だ。いとほしくなるほど自分を憎んだ心だ。

 どんな切実な告白でも、聴手は何か滑稽を感じるものである。滑稽を感じさせない告白とは人を食った告白に限る。人を食った告白なんぞ実生活では、何の役にも立たぬとしてしても、芸術上では人を食った告白でなければ何の役にも立たない。
 優れた作品はみな人を食っている。どんなにらおとなしく見える作品でも人はちゃんと食っている。そこには人世から一歩すさった眼があるのだ。暫く人間を廃業した眼があるのだ。
 作品の現実とはいつも象徴の現実である。

小林には、当時流行していた俗流心理主義に対する、抵抗嫌悪が常にある。
最初の引用は始めて読んだ時もすごく印象に残って覚えていた。現代日本のネット上も「探るような眼」ばかりで、「和やか目」にお目にかかることなどまずない。何かを批判して自分が賢いと思い込みたいという現代病。いや、日本病。
自己観察自己分析の欺瞞もその通り。どんなに自分を厳しく観察しようとしても、自己愛か自己憎悪にたどり着くだけだ。自己の真実は他者との関係性の中でしか見出せない。
「人を食った告白」というのは存外難しい。ネットのおかげで「告白」はあふれかえっているが、「滑稽」どころかただただ悲惨な見時メッタらしいものばかり。何かいてもいいけど、もっと読む人間を楽しませてくれよ。内容の問題じゃない、内容はどんな悲惨な告白でもいいのだ。問題は告白の「仕方」「様式」だ。他者不在の一方的な垂れ流しの告白など誰が聞きたがるだろう。そして、そういう告白に、何の興味もなく、これまた自己主張だけでの反応。

「批評家失格 U」

「あいつは、ああいふ奴さ」といふ。甚だ厭な言葉である。だが、人を理解しようとしても、その人の行動や心理を、どんなに分析してみたところが、最後につき当たる壁は、「あいつは、ああいう奴さ」といふ同じ言葉であるから妙である。
「子を見るに親に如かず」といふ。わかる親もあれば、わからぬ親もいるといふ風に考えれば一向につまらないが、オヤが子をどういう風に見るかと思えば面白い。私といふ人間を一番理解しているのは、母親だと私は信じている。母親が一番私を愛しているからだ。愛しているから私の性格を分析してみることが無用なのだ。私の行動が辿れないことを少しも悲しまない。悲しまないから決してあやまたない。私といふ子供は「ああいふ奴だ」と思っているののである。世にこれほど見事な理解といふものは考えられない。

この世の真実を、陥穽を構えて、捕へようとする習慣が、私の身についてこの方、この世は壊血症の歌しか歌わなかったはずだったが、その歌は、いつも私には、美しい、見知らぬ情欲を持っているものと聞こえたのだ。
で、私は、後悔するのが、いつも人より遅かった。

はるか昔の小林初期の文章を読んでいると、まるで現代日本のことを語っているかのようだ。いかに他人を普通に理解できていないか。「ああいふ奴だ」と簡単に深く理解してやれていないか。

「批評について」

一体大変大きな軽蔑というものは、大きな愛情と紙一重のものなのかも知れないが、さういふ高級な面倒な問題を言ふのではない。私たちの間での-軽蔑などといふものはそんな大げさなものぢゃない。ある批評家が、ある作品を軽蔑する。だが、彼の心持に、決して激しいものも積極的なものも豊富なものもあるわけでもない。さいうふ人の軽蔑は、ただ己の貧寒を糊塗する口実に過ぎない。貧寒な精神が批評文を作るとき、軽蔑的な口調で述べればえらそうに見えるだけの話だ、もっともえらそうにも見えはしないが、兎も角批評文の体裁を整のへる上に軽蔑口調は便利なだけの話なのだ。だから、心から軽蔑したいなどと思っている人はいないので、みんなうっかりほめたりするとお里を見透かされさうなものだから軽蔑などして済ましている、ところがまずいことにはこの心根が見透かされている。

これもまた、現代日本のネット上の言説について述べているようではないか。
日本的なケチなプライド。他者を軽蔑してみせることで自分がそうではないと証明したいだけのさもしい根性。その実本人には何も内容などないのだ。ただ世間体で自分が馬鹿にされたくないだけ。えらそうに一見理性的に批判しているようでいて、実は明晰な理性の光など全く存在しない。激しい感情もない。ただ微温的な世間知が薄汚く空気のように漂っているだけ。
そういう異種独特な日本的精神風土は、本当にやりきれない。有名な某巨大掲示板の欠点も、あそこに表面上みてとれる悪意ではなく。むしろ根本的な悪意の不在、裏を返せば愛情の欠如、そして自己防衛に汲々としているだけど世間智だけによって成り立つ貧困この上ない精神の問題である。

「逆説といふものについて」

或る時、芥川龍之介を崇拝している人に、芥川氏をどう思うかと聞かれて、三十面下げて道徳とは左側通行といふ事である、などと平気で書けるようなロマンチストは大嫌いだよ、と答えてその人に大変厭な顔をされたことがある。

小林は芥川に対する評価が、とてもからい。他にも乃木将軍をモデルにしたといわれる「将軍」をあげて、ああいう戯画化というのは巧みに見えるが全然人間の本質に届いていないと小林は断じている。「芥川氏のような半知的作家」とまで言い切っている。
言いたいことはよく分かる。しかし、実は私は芥川氏のそういう甘いロマンティストの側面。理知的で辛らつな様でいて全然そうじゃないところにどうしようもなく惹かれるのだ。
今更芥川を、なんと言うか真剣に評価しようなどという義務など全くなしに読める身としては、小林が欠点としてあげていることは、私には全て芥川の美質のように思える。
例えば「杜子春」という作品は、当時甘いといって批判されもしたそうだが、私はあれこそ芥川らしい名作だと思う。もともとああいう作品を書きたい人だったのだと思う。たまたま神経衰弱で自殺したが、本来はああいう死に方をするする必要など全然なかった人ではないかと思う。「地獄変」のような作品もあるが、あれも心底恐ろしいというわけではない。本当に残酷で救いのない精神を持つ外人の不良作家たちとは全然違う。そういう芥川が好きで何が悪いのだと、私は開き直りたいのだ。
小林の言うとおり、例えば「枯野抄」での芭蕉の弟子たちの心理分析も実に浅薄だ。でも、その浅薄さが楽しいのだ。
なんだか、ちゃんと芥川を褒めることが出来ていないような気がするので、このことについては小林が芥川のことを本格的に論じた文章を扱うときに改めて書こうかと思う。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 小林秀雄
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