2008年09月24日

(メモ)小林秀雄「再び心理小説について」

ジョイスやプルーストについて。彼らの小説を、自我の解体により意識は一切の選択原理なしに、意識の流れに乗じて表現され、夢のように気まま勝手なもの過ぎない、という俗論を退ける。とにかく小林は、この種の図式的思考が大嫌いなのである。
流行りのシュールリアリズムによるオートマティズムとは違い、ジョイスもプルーストも当然作家としての選択的行為で創作している。その方法が、例えばフローベールとは全く外見が異なるにしても、作家的理知は根底においてはしっかりと保持している。ジョイスやプルーストを感傷的ロマンティシズムとみなすのは、もっともらしいようでいて、何も見ていることにはならない。等々。
ところで、私自身も若い時にはジョイスやプルーストにもチャレンジしてみましたよ。「ユリシーズ」は我慢して最後まで読破したし、「失われた時を求めて」
も、頑張って第何巻かまでは読み進めました。が、ついに我慢の限界で放り出しましたよ。「もう、これ以上読んでいたら、気が変になる!」文字通り、分厚い書物を、放り投げたのでありました。
そんな私なので、この怪物作家二人について、何か言う資格は一切ない。ただ、小林がジョイスの「ユリシーズ」に言っていることを聞いていて、読書のおぼろげな記憶がよみがえり、確かにそういう感じを受けたのを思い出した。記憶とは不思議なものである。プルーストのマドレーヌのように。
「ユリシイズ」を読んだ人は、明らかにジョイスの傲然たる、虚無的な面貌に突き当たるはずだ。
私が無類だと思うのは、その全く独特の苦さである。苛烈な、虚無的なしかも肉感的な無類の味わいである。人間の行動に関する造形的な、残酷と憂鬱とが混交したような描写が、長々しい薄弱な心理像の連鎖に生彩を与え(以下略)
もし、現在もう一度チャレンジすれば、私ももう少しは抵抗して読むことが出来るかもしれない。しかし、私はもはや小説など読むのがすっかり煩わしくなり、ひたすら音楽を聴いている方がよいという怠惰なオヤジにすっかり化してしまったのだ。まして、あんなめんどくさいものを再読しようという気力は、もはやない。
posted by rukert | Comment(0) | TrackBack(0) | 小林秀雄
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