2008年09月27日

(メモ)小林秀雄「ナンセンス文学」

やはりベルグソンが引かれている。
人体の態度、姿態、運動は、この人体が、ひとつの単なるメカニックであると我々に思わせることに正確に比例して滑稽である。
人はもし笑うことが出来なかったら、気が狂うであろうと。睡眠中に夢を見たり泣いたりすることが出来なかったりした場合と同様。
よく、アメリカン・ジョークを我々日本人は馬鹿にする。あんなもののどこが面白いのかと。しかし、笑いというのは、センスの問題というより、本質的には、人間や事物をどう対象化するかに関わっている。その分析尺度や距離感の問題なのである。高級か低級かという問題ではない。だから、文化によって全く性質が異なってくるのは当然のことだ。
日本的な笑いというのは、やはり理性的な対象化というよりは、感覚的なずらしのような性質のものである。日本人から見れば、欧米の笑いは繊細なニュアンスに欠け、欧米から見れば、日本の笑いは子供っぽい。
タカ・アンド・トシが「欧米か!」のツッコミで一世を風靡したのも当然のことなのである。って違うって。というのは、我ながら日本的な笑いだと思います。
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2008年09月25日

(メモ)小林秀雄「現代文学の不安」

現在と違って、当時は文学の社会的意味が真剣に論じられていたわけだが、小林の言うことはごくごく「常識的」である。この発言も、当時の状況を踏まえて読む必要があるわけだが、そのまま独立して読んでも現在でも変わらない真実だろう。あまりに常識的で正しすぎる発言は、一種通俗的に響くだけである。
私は近頃になってやっと、次のことがおぼろげながら腹に這入った様に思ふ。それは青年にとってはあらゆる思想が、単に己の行動の口実に過ぎず、思想というものは、いかに青年にとっては、真に人間的な形態をとり難いものであるか、という事だ。成る程言葉は簡単だが、事態は非常に複雑である。この欺瞞は、情熱の世界にも感情の隅々にも、愛情にも憎悪にも、さては感受性の端くれにまで、その網の目を張っている。いくら社会を眺めても、本を読んでも、政治行動の真似事をしても、自分の身を省みなければ、この謎はとけぬ。
嘉村磯多を小林は誉めたのだが、当時の風潮からすれば、いかにも天邪鬼であるように受け取られたことだろう。というか、私自身も、小林がほめていたので興味をもって読んでみたことがあるのだが、本当に私小説の極北で、社会性とか一切関知せずという作家なのだ。そういう作品に価値を認める小林の批評眼が面白いと思う。
あと、小林は芥川に対す評価がものすごく低い。小林が言っていることで、私が納得できない点の一つだ。ここでも「人間が描けてない」とか言っているのだが、別に小説で人間なんか描けていなくたって全然構わないじゃないかと思う。要するに、芥川の作品が神経だけで出来ている仮構物だといいたいようなのだが、私には十分その仮構性の完成度が高くて満足なのだが。それどころか、(「明暗」を除く)後期漱石のようなもったいぶったに作品群のほうが、余程「人間が描けてない」のではないだろうか。
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2008年09月24日

(メモ)小林秀雄「再び心理小説について」

ジョイスやプルーストについて。彼らの小説を、自我の解体により意識は一切の選択原理なしに、意識の流れに乗じて表現され、夢のように気まま勝手なもの過ぎない、という俗論を退ける。とにかく小林は、この種の図式的思考が大嫌いなのである。
流行りのシュールリアリズムによるオートマティズムとは違い、ジョイスもプルーストも当然作家としての選択的行為で創作している。その方法が、例えばフローベールとは全く外見が異なるにしても、作家的理知は根底においてはしっかりと保持している。ジョイスやプルーストを感傷的ロマンティシズムとみなすのは、もっともらしいようでいて、何も見ていることにはならない。等々。
ところで、私自身も若い時にはジョイスやプルーストにもチャレンジしてみましたよ。「ユリシーズ」は我慢して最後まで読破したし、「失われた時を求めて」
も、頑張って第何巻かまでは読み進めました。が、ついに我慢の限界で放り出しましたよ。「もう、これ以上読んでいたら、気が変になる!」文字通り、分厚い書物を、放り投げたのでありました。
そんな私なので、この怪物作家二人について、何か言う資格は一切ない。ただ、小林がジョイスの「ユリシーズ」に言っていることを聞いていて、読書のおぼろげな記憶がよみがえり、確かにそういう感じを受けたのを思い出した。記憶とは不思議なものである。プルーストのマドレーヌのように。
「ユリシイズ」を読んだ人は、明らかにジョイスの傲然たる、虚無的な面貌に突き当たるはずだ。
私が無類だと思うのは、その全く独特の苦さである。苛烈な、虚無的なしかも肉感的な無類の味わいである。人間の行動に関する造形的な、残酷と憂鬱とが混交したような描写が、長々しい薄弱な心理像の連鎖に生彩を与え(以下略)
もし、現在もう一度チャレンジすれば、私ももう少しは抵抗して読むことが出来るかもしれない。しかし、私はもはや小説など読むのがすっかり煩わしくなり、ひたすら音楽を聴いている方がよいという怠惰なオヤジにすっかり化してしまったのだ。まして、あんなめんどくさいものを再読しようという気力は、もはやない。
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2008年09月23日

(メモ)小林秀雄「文藝時評の科学性をめぐる論争」

「マルクスの悟達」の反響を受けての文章。
小林は何度も言っているが、マルクスをイデオローグとしてではなく、ぎりぎりまで考え抜いた生きた思想家として捉えようとしている。当時、恐らくそんなことをしようとしていた人は誰もいなかっただろう。小林の言うことは、唯物史観階級闘争派文学者にも純粋芸術派文学者者にも、全く話が通じていなかったのだと思う。また、これもたびたび言っているがマルクスを唯物論者とも観念論者とも考えていないのである。
一体、人々は精神とか物質とか、観念論とか唯物論とかいふ言葉に、どうしてそんなに神経質にこだはっているのでせうか。「資本論」の第一巻第一章を読んで御覧なさい。あそこで、彼が商品を縦横に分析している方法は、観念論的方法なんですか、それとも唯物論的方法なんですか。どつちでもありはしません。
また、エンゲルスの言葉も引いていて、「無限なるものの認識」は「可能でも不可能でもある。そして、これが必要な全てである。」と。エンゲルスを借りて「無限なるものの」認識の可能性を明言している。しかも、純粋な科学的方法でである。
こうして小林の初期の骨っぽい文章を苦労しながら読んでいて感じるのは、彼がマルクスやエンゲルスの言葉を借りて、いや場合によっては彼らの言葉を曲解してと言っても良いのかもしれないが、小林のほとんど直感的で生来的なものの考え方を語っているということだ。後年になると、あまり論理的なことはうるさく言わなくなるし、一見科学性や論理性をどんどん放棄して行ったかかのようにも見える。でも、恐らくそれは見せ掛けだけである。というか「科学的」の意味が、やせ細った「科学的」とは最初から全然違うのだ。
例えば後期のベルグソン論。あれもとても怪しげな部分を含む文章だが、基本的には徹底して科学的に論理的な思考を貫くことで、いかに「無限なるものの認識」をどこまで出来るかを、ベルグソンと共に挑戦した実験記録とも言える。本人は誤りを自ら認めてベルグソン論を封印したわけだが、少なくともあれは小林が完全に「あっちの世界」に行っちゃった証明ではないと思う。むしろ、初期の論文同様、「こっちの世界」の方法でやれることをやりつくしてどれだけ「あっちの世界」を垣間見ることができるのかという態度で書かれている。そういう態度を貫き通したことが一番大切なことであって、結果的に小林のベルグソン論が正しいのか間違っているのかなど、つまるところどうでもいいことだと思う。「本居宣長」だって、基本的にはそういう態度で書かれている。
小林は、初期から晩年まで、全く変わらなかった人である。
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2008年09月22日

(メモ)小林秀雄「心理小説」

ジョイスの心理小説などをめぐって。ジョイス自体というよりも、それを表面的な技法としてしか受け入れられないわが国文壇についての論及である。あるいは、ポーの意識的作業の苛烈さと比べて、わが国の文学者はなんと楽天的であるか。
勿論、現在の日本においても、その状況は全く変わっていない。
文学における心理学とは、安易で危険な誘惑である。小林はそのあぶなっかしさを、きちんと認識している。
心理学は頭にくる酒みたいなものだ。安かったと思ってもあとできっと後悔する。私は両方とも性懲りもなく経験して来た。

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