2015年09月10日

イングリッド・チューリン

ベルイマン映画をかなり昔にスカパーのシネフィル・イマジカが集中して全作品放映したことがある。私はそれをVHSビデオに録画しておいて今でも手元にある。残念ながら全部は残っていないのだが。
最近、ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」を見直して、イングリッド・チューリンにすっかりやられて、ベルイマン出演作を全部観てみた。
「野いちご」「女はそれを待っている」「魔術師」「冬の光」「沈黙」「狼の時刻」「夜の儀式」「叫びとささやき」「リハーサルの後で」の全9作品である。
チューリンが本当に美しい初中期の作品から、58歳で役柄も(実際も)老いを演じている「リハーサルの後で」まで、実に多種多様な役柄をやっているのだが、じつにどれも役になりきって完璧に演じきっている。というよりは、役柄そのものになりきって役を完全に生ききっている。本物の天才役者だったのだと改めて痛感せずにはいられなかった。
個人的にチューリンの顔(あの強烈な光を放つ大きい目や男を飲みこんでしまいそうな肉感的な唇)やスタイルがタイプで、例えば「野いちご」などは本当に美しいと思う。たいそう色気のある女性なのだ。しかし、こうして色々な作品を観ていると、その事よりも彼女の役者としての凄みに感心したのである。

ベルイマン映画デビューの「野いちご」では、ヴィクトル・シェストレム演じる老教授の義理の娘役である。夫役のベルイマン映画の名優グンナール・ビョルンストランドと夫婦の関係で問題を抱えている。
ここでは、普通の心の優しい女性役である。普通に美しいチューリンを観たいのならばこの映画が一番かもしれない。美しくて知性を感じさせ色気もあるたいそう魅力的な女性。それを自然に持ち前の存在感でやっている。ただ、役者としての本領はまだこの映画では(そもそも役柄的に仕方ないが)発揮されていない。

「女はそれを待っている」では、妊娠して病院に入院している妻の役。ここでも、基本的には優しくて知性があって美しい女性の役である。但し、前半で夫と激しくやりあう場面ではチューリンらしい毒や凄みの片鱗がよくでていると思った。

「魔術師」では、やはりベルイマン名優のマックス・フォン・シドー演じる魔術師の妻の役。普段は男装してシドーの弟子としてふるまっている。
それが、嫌な科学者役のビョルンストランド
(こういうのをやらせたら彼は天下一品だ)に部屋をのぞかれて実際は女性だとバレるのだが、男装からその女性の寝着姿への変身ぶりのあざやかで美しいこと。男装の方もとてもよく似合っている。
役者としては静かであまり自己表現はしない役だが、ビョルンストランドとやりあう場面のリアリストとしての女の側面、知性的な演技などは見事である。
シドーをベッドで慰める場面も、女チューリンらしさがよくでていた。

「冬の光」では、ビョルンストランド演じる牧師と男女の関係があり、男に執着する独身の女教師の役である。
地味な服装でダサい眼鏡をかけている野暮ったいちょっとウザい女という設定で、それまでのチューリンの役柄からはかなり意外な配役である。それだけに、チューリンの役者としての真骨頂がここでは十分発揮されている。
もともと相当美しい女性なのにメイクや衣装のせいも勿論あるが、存在自体がそういう女性になりきっている。表情やオーラが役柄に完全に同化しているのだ。役を生ききるチューリンの特異な能力がベルイマン映画の中でも最もよくでていると思う。
特に、教室でビョルンストランドと痴話喧嘩をして、彼に執着する姿をさらすところは演技が素晴らしすぎて、ちょっと笑ってしまうくらいである。人間の醜さと美しさの混合する感情を表現させたら彼女くらいできる人はそうはいまい。
ちなみに、改めて「冬の光」は映像的にたいそう美しい映画だと感じた。

「沈黙」では病身で自分に絶望しきっていて、妹と愛憎の関係にある姉の役。翻訳家わしている知性は女性。ここでは、「美しい」チューリンに戻っているが、複雑な内面を持つ女性として、役者の本領も発揮されている。
ベッドでオナニーをするシーンなどもあり、チューリンらしい役どころではある。その一方で知性と気品も感じさせ、また妹に激しくののしられても、やりすごして部屋を去る際に憐れみのような表情をするのが印象的。激しい気性の妹役のグンネル・リンドブロムに対して「受け」の役である。チューリンならこの妹の方も十分出来そうだが、より難しい演技が求められる姉の方をチューリンは見事にやっている。チューリンの役者としての多面性がよく出ている役である。
ここでのチューリンは「野いちご」とは違った何とも言えない成熟した美しさがある。

「狼の時刻」では出番は少なく、画家役のシドーが恋焦がれる現実とは思えないような女の役。ある意味、チューリンらしい役ではある。全裸を横からアップで移動しながら映すシーンがあったりする。役者としては特に何もしない特別出演的な役であった。

「夜の儀式」では、ビョルンストランドなどと三人で公演をする女優の役。
演目を調べる検事におびえる神経過敏で奔放で感じやすくてきわめて女性らしい女優という設定である。
チューリンは実際には多分恐ろしく「強い」女性だと思うので、厳密には、らしくない役のはずだ。ところが、ここでもやはり役になりきって弱くて繊細な女に見事になりきっている。表情もオーラも。全くもって何でもできてしまう女性である。ここでのチューリンは、ベルイマン映画の中でも特に魅力的で、余計なことだが肌の露出シーンも多い。
ちなみに、この「夜の儀式」はもともとテレビ映画だったのを映画にした短い作品だが、大変出来が良くて、個人的にはベルイマンの隠れた名品だと思っている。

「叫びとささやき」は、チューリン、ハリエット・アンデルセン、リヴ・ウルマンとベルイマン・ガールズが勢ぞろいして三姉妹の愛憎を描いた作品。チューリンは長女役である。
冷たくて気が強い長女という、これはチューリンらしいおはこの役である。
妹のリヴ・ウルマンにひどいことをいうシーンなど素晴らしい。もっとも、リヴ・ウルマンも最後にはやり返すところがあって、そこもすごい。まったくもって、ベルイマンガールズはおっそろしい。
グラスをわって陰部に刺しこみその血を顔になすりつけるシーンもチューリンらしくて、こわいこわい。


そして、最後の「リハーサルの後で」。これはベルイマンでも本当に最後の方の作品で。チューリンも公開当時なんと58歳である。
主人公の演出家と関係のあった老女優の役。
チューリンもさすがに容姿が衰えて、かなり太ってしまっている。しかし、美しさの面影はあるし、何より相変わらず何か人をひきつけずにはいられない抜群の存在感は健在だ。
酔って登場して、演出家に肉体関係を求め、あれこれ自身の不安や不満をぶつける老女優。
すごい役で、チューリンもそういう醜さを見事に表現しきっているのだが、チューリンがやるとなぜか不思議な気品のようなものも感じる。彼女の役者としての本質がよく出ている。ただし、やはり「野いちご」とは別人である。それは本当に仕方のないことだ。
ちなみに、「私はこれでももう46歳なのよ」というセリフがあるが、実際は58歳なのでちょっと笑ってしまった。

イングリッド・チューリンは役者の中の役者であった。
posted by rukert | イングリッド・チューリン

2015年09月09日

ルキノ・ヴィスコンティ「地獄に堕ちた勇者ども」

近所のTSUTAYAをウロウロしていて、洋画コーナーでヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」をみつけた。最近は旧作ならば一週間100円で借りてしまうことができたりする。久々にヴィスコンティワールドにどっぷりはまってみた。
ヴィスコンティは若い頃によく観た。あの豪華絢爛で退廃した大人の世界に憧れて。
ただ、今冷静に考えると、「ルートヴィヒ」にしても「家族の肖像」にしても、あるいは名作とされる「ベニスに死す」にしても、内容はかなりトンデモ映画の部類に属する。どれも後期の作品だけれども、もっとまともな「山猫」にしても滅びゆく貴族の姿なんて実は日本の庶民の私などには全く縁のない世界だ。
それでも、この「地獄に堕ちた勇者ども」を観ていると、演出家としては文句なく天才のヴィスコンティのつくりあげるきわめて「映画的」な世界の肌合いに魅せられずにはいられない。
こんな映画を日本人が撮るのは不可能だろう。自身本物の西欧貴族であるヴィスコンティが実際に知っている、大人の人間たちの愛憎虚栄退廃美意識といったものがビシビシ伝わってくる。日本人にも愛憎の世界はあるが、それらが子供に見えてしまうくらい露骨すぎるくらいの冷酷な世界がある種心地よいのだ。
ヘルムート・バーガーが女装してマレーネ・ディートリッヒの「嘆きの天使」を真似るあの退廃した世界。
DVDの付録にヴィスコンティのインタビューが収録されていて、本作はナチスがどういうものだったかを描くのに価値があるとか述べている。確かにナチに対する痛烈な批判ととれなくもないが、もうそんな事はどうでもいいくらいヴィスコンティ的な大人の人間の普遍的な愛憎劇だと思う。そもそもヴィスコンティが本気でナチ批判を目的としてこの映画をつくったなどとは私には信じられないところがある。
ラストのところで、ヘルムート・バーガーがダーク・ボガードとイングリッド・チューリンに毒薬を渡して死を迫り、二人を置いた部屋を去り、外のパーティ会場をウロウロするシーンは素晴らしいシーン、演出だ。何もセリフの説明はないが、ヘルムート・バーガーの表情の動きで、彼の落ち着かない不安と憎悪などが入り混じった言葉では説明不能な心の動きが映像だけで如実に伝わってくる。きわめて映画的な表現作法だと思う。
役者はダーク・ボガードを始めとして皆素晴らしいが、何といっても強烈な印象を残すのはヘルムート・バーガーとイングリッド・チューリンである。
バーガーの神経過敏で繊細で弱くてなおかつ狂気と攻撃性をあわせもつキャラクターは鮮烈である。
ただ、私がすっかりやられたのはチューリンの方だ。ベルイマンでおなじみのこの女優はやや歳をとってからヴィスコンティに抜擢された。ヴィスコンティによると、ドイツには役にふさわしい女優が見当たらなかったので、ドイツ人に見えるスウェーデンの大女優のチューリンを呼び演技にも大変満足していたそうである。
チューリンの気の強い女ぶり、ボガードを虜にする魔性の女ぶり、それでいながら女性としての繊細さともろさが全てよく出ている。実にチューリンにピッタリの役で彼女の魅力がベルイマン映画に劣らないくらい存分に発揮されている。
チューリンは役になりきるタイプでベルイマンでは本当に様々なタイプを完璧に演じ分けている。ちょっと彼女には意外な役の「冬の光」でのうざい愛情をまきちらす醜い女の演技が個人的には好きだ。彼女の場合、演技というよりまさしく役になりきって、その役の人間を生きてしまうようなタイプである。
この「地獄に堕ちた勇者ども」では、様々な性格の混合を求められる難しい役にやすやすとなりきってやりきっている。
前半の魔性でこわいくらい気の強いきつくてなおかつ優美な女と、バーガーに近親強姦されて気がふれてすっかり純真な少女のようなもぬけのからになった女の対照が鮮烈で、なおかつ両者をごく自然に演じきっているのである。
というわけで、私はこの後チューリンがベルイマンに出演した全九作をまとめて観る羽目になった。改めてどれも素晴らしい。それらについては、また追々このブログで書ければと思っている。
ちなみに、この映画にインスパイアーされてつくられたのが、「カリギュラ」のティント・ブラスが監督した「サロン・キティ」である。やはりナチス時代を題材にしていて実在した娼館のサロン・キティを描いている。
ヴィスコンティを観た後では、やはり映画の出来としてはちょっと比較にならないけれど、こちらもバーガーとチューリンが主役をはっていて、ハッキリ言えばこの二人を観るための映画と言っていいだろう。
バーガーは「地獄に」の延長線上の似たようなキャラクターのナチ将校でやはり狂気の美をまきちらしている。やはりすごい役者ではある。
一方、チューリンはサロン・キティの女将役。こちらは「地獄に」とは全く異なる娼館の人間、男と女を知り尽くして、きわめて女性らしく、なおかつ心も優しいという役である。これまた、サロンキティのマダムはこんな人だったのではないかと錯覚してしまうくらいなりきっている。
そして、肌をみせて踊りや歌も披露している。映画公開当時チューリンは50歳。
その八年後のベルイマンの「リハーサルの後で」でも、脚や乳房を披露していた。大女優としては珍しく裸をみせるのを最後まで全くいとわない人でもあった
posted by rukert | イングリッド・チューリン

2013年12月25日

「奥様は魔女」のクリスマス

現在テレビ東京が「奥様は魔女」を再放送している。懐かしい番組で今までにも地上波、BS、CSで何度も何度も再放送されているがそれでも飽きない。
録画して楽しんでいるのだが、特に忘れがたいのがクリスマスの二つのエピソードである。
 
一つ目は第五シーズンの「聖しこの夜」。
モティマー・インスタントスープ社長のモティマーは、広告契約を結んでいるラリー・テイトとダーリン・スティーブンスにクリスマスにも働く事を強要する。モティマーはなぜかクリスマスを憎んでいる。
ちなみに、モティマー役のCharles Laneは「奥様は魔女」シリーズにも主に頑固な社長役でちょくちょく登場していい味を出している。調べたら他のテレビドラマにも性格俳優としてよく出ていたらしい。それとフランク・キャプラの映画の常連でもあったそうだ。ちょっと思い出せなかったが。
ダーリン役はディック・ヨークの時代。
さて、モティマーのあまりの横暴ぶりにダーリンは仕事をするのを拒否してしまい、モティーマーは広告契約を解除してしまう。
サマンサはモティマーがクリスマスを憎んでいることを気の毒に思い、モティーマーの家に魔女として現れて北極のサンタのところへ彼を連れて行く。
サマンサとモティーマーがほうきにのって夜空をとぶシーンが美しいとともにおかしい。
モティマーはサンタクロースとも出会うが頑なにこれは夢だと言い張って認めない。
その際、スージー人形というアザが出来る世界に一つしかない人形を知る。
サンタクロースが各家を回るのにもつきあわされる。モティーマーの家の使用人のホーキンスの家族が幸せそうにしているのも目撃する。モティマーは「金もないくせに」と言うが、サマンサに「あなたはお金持ちね、でも幸せ?」と問われる。そしてモティーマーは家に戻される。
翌朝、ダーリンとサマンサと娘のタバサがクリスマスを祝っているところにモティマーが現れる。
すっかり頑固な様子が変わって「家にいると寂しくてね」などともらす。ホーキンスにはクリスマス休暇をプレゼントしたと。
「昨晩は寝れなくてね」、そしてサマンサの方を向いて「奥さんもよく寝れなかったんじゃないかね?」
さらにモティマーは「君たちに謝りたい事がある。」とためらいがちに恥ずかしそうに言うが、サマンサもダーリンもすぐ察してラリーも一緒に皆でクリスマスを祝う事になる。
タバサはサンタからスージー人形をプレゼントされていたのだが、それをモティマーが見つけて「これは世界に一つしかない人形なんだよ」「おかしいな、なぜそれを私は知っているのだろう。」
サマンサがそこにやってきて、サマンサの笑顔、モティマーの不審そうな顔、タバサの天使のような顔、モティマー、サマンサ、モティマーが始めてみせる意外に人のいい素晴らしい笑顔、サマンサのとびっきりの笑顔とカメラが細かくきりかわる。まるで、小津映画のように。
クリスマスソングが流れて終わる。

二つ目は第七シーズンの「水玉姉妹」。
ダーリン(ディック・サージェント)とサマンサは、クリスマスに同じラリーの広告会社で働く黒人のケイス夫妻の娘リサを家に招く。タバサとリサは本当の姉妹のように仲良くなる。
ラリーの会社と広告契約を結んでいるブロックウェイ社長がダーリンの家を訪れるとリサが応対に出て、ブロックウェイはダーリンの娘と勘違いして黒人女性と結婚していると思い込む。そしてダーリンを広告の担当から外すように理由は言わずにラリーに命ずる。
あわてたラリーがダーリン家でホームパーティを開いてブロックウェイも招く。ブロックウェイは自分の勘違いに気づいて、ラリーにダーリンを担当に戻すように言う。
その時のラリー・テイトが立派だった。いつもはスポンサーにゴマをすりまくってダーリンを困らせるお調子者で節操のないラリーが威厳のある態度を示す。
「ダーリンの妻が黒人ではないと分かったから仕事に戻せと言うのですか?」
そしてラリーは自分の姿を鏡でみて確認してからブロックウェイにキッパリと言い渡す。「他の代理店を探してください。我々はおります。」
「君はそんなミリオンダラーの顧客を断れるわけがない。」
「あなたより私の方が驚いているんですよ」、とラリー。
そこへサマンサが現れてブロックウェイに魔法をかける。ラリー、サマンサ、ダーリン、それにブロックウェイ自身が黒人に見えるようにしたのだ。驚き茫然自失としてブロックウェイは去る。
翌朝、雪が降りしきるなか、ブロックウェイがダーリン宅を訪れる。彼の肩のコートの上にも雪がかかっている。
ブロックウェイが昨晩の傲慢な調子とは打って変わって「昨晩寝れなくて、ここに来ずにはいられなかったんです。」
そこにはダーリンとケイス夫妻もいる。
(以下、もとの英語版と吹き替えか全然違うので原文の内容を意訳で紹介する。吹き替えでは当たり障りのない内容になっていて残念だ。)
ブロックウェイが一人で真摯な様子で話し続ける。
「どうしても、皆さんに言っておきたい事があるんです。昨晩、ここで変な体験をしたのですが、そのおかげで私は自分自身の姿にやっと気づいたんです。私は人種差別主義者だったんです。いや、あからさまなタイプのレイシストじゃない。私はもっと卑劣で卑怯な差別主義者でした。あまりに卑劣すぎて自分でも気づいていなかったんです。」
それだけ言ってブロックウェイは去ろうとする。そこへサマンサがすかさず「お食事は?Before dinner?」
ここはちょっと泣いてしまう。絶妙のタイミングと言い方でエリザベス・モンゴメリーのサマンサが言うので。
皆がブロックウェイのことを許して、ブロックウェイも感激する。
サマンサとダーリンがキスするシーンをカメラアングルが変わって映し出し、雪とクリスマスソングで終わる。

どちらも、本当に素晴らしい話なのだ。特に「水玉姉妹」の方。難しい差別の問題を絶妙なユーモアにくるんで、なおかつ率直に真面目に見せてくれる。まだ人種差別が深刻な時代のテレビドラマなのだが、同時にあの時代のアメリカ特有の楽天的な良心も垣間見える。
そして、何よりも抜群のユーモアのセンスだと思うのは、キリスト教においては本来呪われた存在であるはずの「魔女」witchが、クリスマスで良心を祝う存在の役割を果している事。サンタクロースとも友達だったりするのだ。
もしかしたらこういう楽天性に疑問を持つ人もいるかもしれない。でも、私はこういうフランク・キャプラ的な若いアメリカの楽観的な肯定主義が好きである。もはや、アメリカには―いや世界のどこを見ても―こんな余裕はないので。
現実の厳しさをみつめつつの美しいある夢なのだと思う。
だから「奥様は魔女」はいつまでたっても色あせないのだ、多分。
posted by rukert | テレビ

2013年03月27日

木下惠介「わが恋せし乙女」

「肖像」に続いて井川邦子主演作品を見てみた。井川邦子は後年に比べると、ふっくらしていて健康的な美人でこの役にピッタリである。
同じ木下の「野菊の如き君なりき」と似た感じの、若き日の甘き悲しき失恋譚である。「野菊」の方はさらに二人とも若いのだが。
井川邦子と原保美が隣同士に腰掛けて、井川が飲み物をゴクゴクと飲み干して、それが口からこぼれてほいを伝って落ちるところなど、生々しくて若さとある種のエロティシズムを感じる。
それにしても、主役の原保美が柳葉敏郎と感じがよく似ていて驚く。
基本的に若き日の甘酸っぱい恋の物語なのだが、木下演出は相変わらず堅実でスッキリ整理されていて、気持ちよく素直に物語りに入ってゆける。
私自身も若い頃は、映画に「芸術」を求めたりもしたが、今はそういうことにはほとんど興味がない。この映画に限らず、木下映画はどれも気持ちよく観る事が出来る。
井川邦子の恋人役の安部徹が印象的。戦争で足を負傷して普通に歩行できない体になってしまったという設定で、心がきれいで立派で尊敬できる人間という感じがよくでている。
山の中で、若者を集めてヴァイオリンを無伴奏で弾くシーンもよい。
私はまだ木下映画を多く観ていないのだけれども、その中でも「二人で歩いた幾春秋」が一番印象に残っている。すごく地味な題材の映画なのだけれども、その堅実で地に足がついたリアリズムが素直に心に染入ってきた。
その中で、若き日の倍賞千恵子が、佐田と高峰の息子の恋人役で登場するのだが、その優しい心の女性も、この安部徹同様にさりげないのだがとても存在感があった。木下映画では、こういう自然な感じであれながら不思議と訴えかけるところのある人間が登場する。
安部徹が原保美と二人で山で語り合うシーンで、自分の負傷した足を「こんな足でも、かわいくてかわいくて仕方がない。生きているのは素晴らしいなぁ。」と言うところもよかった。素直にこういう部分も受け入れる事が出来るのだ。
posted by rukert | 映画

2013年03月16日

木下惠介「肖像」

スカパーの衛星劇場で木下惠介生誕百周年を記念して、木下映画が放映されている。
この「肖像」は1948年の作品で井川邦子主演。
井川邦子が最初に登場するシーンが、いかにも気が強くて我が儘な女らしくておかしい。私はこの人を同じ木下の「カルメン故郷に帰る」や「二十四の瞳」くらいでしか知らず、こんな役もするのは知らなかった。全編を通じて難しい役を熱演している。
ちなみに、この人の「カルメン」での感じがとてもよくて顔も好きで、ちょっとこの映画にも出ている三宅邦子に似ているかなと思った。しかし、この映画ではもう少しふっくらしていてかなり感じが違うし、三宅との二人のシーンも最後の方であるのだが、やはり全然似てなかった。
映画自体は、菅井一郎演じる純粋な魂の画家に、井川が肖像画を描いてもらう事で、真の自己に目覚めるというストーリー。この映画の脚本は黒澤明が担当している。理想主義的で、少し甘いくらいある種メルヘンティックなところがあるのは、黒澤の「醜聞」とも通じ合うものがあると感じた。
菅井をはじめとする善意の画家一家は、多少現実離れしているのだが、木下の演出が巧みで不自然さを感じない。やはり大変な監督である。
例えば、井川が偽のお嬢さんを演じるのに堪えきれなくなって、もう肖像画なんかやめよう言いに行こうとしたら、菅井が商業的な絵本を書かされることに激昂して編集者と衝突して仕事をなくすのを見て、井川が気を取り直して着物をきる。それを全て見ていた小沢栄太郎がポツリと「おめぇも優しいところがあるんだな。」と言い、井川が「そんなんじゃないわ。」と返す演出などは実にうまい。
小沢栄太郎と藤原釜足が悪徳不動産屋ながら、根は善人という役柄を巧妙に演じている。
全体にストーリー自体は冷静に考えるとすこし現実とはかけ離れて無理があるのだけれども、木下の演出や役者の巧さによって、どんどん映画の世界に引きずり込まれてゆく。
最後の方で、井川が酔って自ら妾であることを三宅に告白し肖像画を破ろうとするところで、三宅が「もしあたしがあなたなら、この肖像画をこわすよりも、自分自身にナイフを突き刺すわ。」と言う。そして井川も身を立て直す事を決意するのだが、この辺は黒澤らしい脚本である。たとえば「酔いどれ天使」で彼はヤクザを徹底的に否定していた。
ただ、個人的にはこのように妾という存在をただ単純に否定してしまうのは少々違和感を感じる。
そして、井川邦子が同じ妾の境遇の友達の三浦光子と語り合うシーンが何度も挿入されるが、そこには妾という存在を簡単に否定しない視点がきちんと示されている。
勿論、黒澤がそういう脚本を書いたのだろうが、むしろこの二人の妾に対する優しい視線は木下の演出から感じられる。多分、脚本の黒澤と演出の木下の間には、微妙な世界観の齟齬があって、それがこの二人の妾のシーンによく出ているのではないかと感じた。
とにかく、木下演出と魅力的な役者陣のおかげで、私などは最初の方からすっかりハマッて最後まで見続けてしまった。映画の力である。
これからも、まだまだ木下映画をたくさん見たいと思った。実はスカパーを録画だけしてあって、ほとんどまだ観ていないのだ。
posted by rukert | 映画

島津保次郎「婚約三羽烏」

小津映画と言えば原節子だけれども、私は三宅邦子がかなり好きである。個人的にタイプ
なのである。
三宅邦子も原節子同様に小津映画の常連、小津ガールだった。
原節子はあまりにも美しすぎて、ちょっと日常的な女性の範疇を超えてしまっていて、あまり女性として愛すという感じにはならない。今年のお正月に「東京物語」のデジタルリマスターを観たのだが見事に復元されていて、原節子の美しさに陶然としてしてしまったのだった。
一方の三宅邦子の方は、もう少し「人間」らしい。とはいっても、あの時代の女優さんに特有の美しさがある。スッキリした顔立ちの華やかな美人で、ドイツ系の顔の女優だったとどこかで紹介されていた。
しかし、性格的にはアッサリした感じで女性特有の感情的な部分をあまり感じさせない。そういうところが小津映画にはピッタリで、だから小津もお気に入りだったのかもしれない。
「麦秋」でも「東京物語」でも、原節子の「お義姉さん」で、その役柄が実にシックリきていた。「麦秋」のラストで美女二人が海岸で語り合い、歩くシーンはとても素晴らしい。

この「婚約三羽烏」(1937)にも三宅邦子が佐野周二の恋人役で登場する。この作品は軽い洒落た恋愛コメディで、冒頭の二人のからみも大変おかしい。
佐野周二が不機嫌そのものの様子で二回の部屋から窓外を眺めている、部屋には三宅邦子の笑顔の踊り子のポスターが貼ってある。
すると、「ちょいと、まだそんなところで考え込んでいるの?」と女性の明るい声が聞こえてくる。三宅邦子が明るい顔で登場。三宅は当時二十歳ちょい超えくらいだが、大人っぽい。
佐野周二が失業状態で、三宅邦子が別れ話をしにきたのだが、男の方はウジウジしていして女の方はアッサリしたものである。
二人の会話がまた面白い。
三宅が最後の食事を佐野につくって二人で食べるのだが、佐野が「キリストの最後の晩餐みたいだ」とか「キミは原告だしボクは被告の立場だし」とか、グチグチこぼすのだが、三宅の方はは平然としたものである。友達がスターになったり、貯金して株をしたりと言い、佐野が「キミはボクがいるために貯金も出来ないといいたいんだね。」と言うと、三宅がすかさず「そうなの。」と即答。ひどいものである。
佐野が怒って席を立ち、今度こそ就職すると宣言するが、三宅は「今まで何度も待ちましたからねぇ。」といって一人で平気でご飯を食べ続ける。
そして、佐野はそのまま出かけようとするが、もじもじと戻ってくると三宅がすかさず「電車賃ですか?」。佐野が「いやお腹がすいてね」と誤魔化すと、三宅がご飯を手で指して「召し上がれ。」と返す。結局佐野は嬉しそうに電車賃を借りた上に、もう一度座ってご飯まで食べるのだった。
観ていてお腹がいたい。なんとも明るい男女の別れ話である。実によく出来たコメディで、三宅邦子のアッサリした感じがよくきいていた。佐野もこううい優柔不断な感じの男をさせるとよく似合う。
映画全体も、上原謙、佐野周二、佐分利信の三人をめぐる軽快な恋愛コメディである。
三人が入社試験を受ける際には、斉藤達雄も登場して、河村黎吉が女性客の演技をするところなども古き良き時代のコメディである。
高峰三枝子の良家のお嬢さん役もハマッてして、彼女の住む豪邸で見事な庭のシーンで、上原謙がホルンを彼女に吹いて聞かせて途中からホルンから映画の効果音で合奏にきりかえるところなど、なかなか洒落ていた。
当時の最新のファッショやジャズや風俗も今観ると新鮮で、色々な意味で大層「モダン」な映画である。
いかにも古い良い映画を見たなぁと感じさせられる。
posted by rukert | 映画

2012年10月22日

成瀬巳喜男「夜ごとの夢」

WOWOWの黒澤全作品一挙放送が終った。大変愉しかったし、黒澤映画について様々な再発見もあった。
最後に書いた「夢」のレビューで書いたように、黒澤というのはある種のリアルな夢を見つづけた夢見人であって、それは単なる空想やイマジネーションではなく、現実以上にリアルな別世界を彼は常に瞥見していたのだと思う。それは、モノクロ時代の名作群から一般には不評だった後期のカラー作品まで一貫している。
黒澤は大変意識的で現代的な作家であった一方で、その本質においては理屈抜きのある種の現実以上に現実的でリアルな世界とほとんど本能的なつながりを常に持ち続けていたある種のシャーマンであって、それが彼の創造する映像に有無を言わせぬ説得力を与え続けていたのだと思う。
とは言っても、私自身の個人的な資質から言うと黒澤映画は少々疲れる。本音の部分で言うと、私が本当に好きなのは小津や成瀬の方だ。いや、この二人も全く異なる個性の持ち主なのだが・・。
成瀬巳喜男映画については、一時期集中的に書き続けたことがある。ただ、彼のつくった映画の数は大変多く、結局途中で投げ出してしまった。また、残念ながら私は全作品を見ているわけではないのだが、かつてスカパーでまとめて放映された際に録画しておいたビデオを引っ張り出して見ている。続きを少しやってみようと思う。

この「夜ごとの夢」は成瀬のサイレント時代の代表作とも言われる。
主演は栗島すみ子。
サイレント映画時代の代表的な女優だそうである。成瀬作品では後年の「流れる」に登場して山田五十鈴を支えているようで最後に見事な裏切りを見せる重要な役をやっていた。すごい存在感だった。
ここでは、健気に生きる酒場の女給役。そして、この頃から成瀬映画の中の女性はとても美しい。ここでの栗島すみ子も大変魅力的である。成瀬というの女性に対してある種の極限的な理想主義者であって、恐らく現実の女性よりもイディア的な女性を終世描き続けた。ここでの栗島もそう。
そしてその女性像は、当時の大人しいおしとやかな女性とは程遠く、大変生命力があって逞しくて男というダメな生きものより一段上の存在なのだ。成瀬映画が最も日本的で伝統的保守的な映画のようでいて、実は最もラジカルで現代的なのは、そういう女性の描き方に尽きると思う。それは多分成瀬の理屈ではなく、ほとんど本能的な女性の本質に対する洞察によるのだと思う。
そして、そういう女性観は多分現代、この2012年という時代にあってようやく現実のものとなり誰もが納得出来るものになりつつあるのではないだろうか。成瀬はあくまで個人的な女性の趣味で映画を撮り続けたが、やっとそれが普遍性を持ちつつある。今こそ成瀬映画は見られるべきだ。
そして、その対極となる男性像を斎藤達雄が演じている。小津のサイレントでも欠かせない役者だが、ここでは徹底的なダメ男だ。これも成瀬映画の永遠の定番だった。
斉藤は結局現実的には何の役にも立たず、自暴自棄になって強盗を働き自殺する。
それに対して栗島はラストで実に成瀬映画的な反応を見せる。斉藤の死に悲しみにくれるのではなく、現実から逃避したことに対して「意気地なし、卑怯者」となじるのだ。そして交通事故で負傷した息子に対して、もっと逞しい男になってくれと言う。
これは、まさしく成瀬映画で何度も何度も形を変えて現れ続けた女と男の姿に他ならない。現実的な生命力があって美しくて魅力的な女と、とことんダメな男。それがこの映画で端的に表現されている。

成瀬的な「視線」の演出もこの頃からだ。例えば、旅から帰ってきた栗島すみ子が乗り合いの船に乗ると、一般の乗客が栗島のいかにも水商売らしい様子に対して白い目で見つめる。栗島がその視線を敏感に感じ取って、目を伏せる。何もセリフはないのだが、映像だけで全てが分かる。
そして、酒場の女給として働く栗島の様子が何とも言えず健気だ。坂本武演じる船長に金の恩気で関係を迫られるが、それほうまくいなして毅然と断る様子。女の洗練と強さを同時に感じさせる。
それに対して斉藤はただオロオロするだけで、こんな商売などやめてくれと言うのだが、栗島は「これくらいの出入りがこわくてこんな商売がゃっていられるか」と言い切る。ここでも、現実的で生命力のある女とひたすらダメな男の対比がある。
映像としては、二人の子供が、斉藤が草野球に興じる間に土管の上に座るシーンが素晴らしい。広々とした青空が背後にひろがる。そして、子供は斉藤の破れた靴をキャラメル菓子であてがう。何とも微笑ましい。
交通事故にあった後の子供の映し方も巧み。頭に包帯を巻いた子供がかわいそうで本当に天使のようだ。
そして、斉藤が自殺した知らせを聞いた栗島が、走り続けるシーンも素晴らしい。そこに彼女の心の動揺や不安があますところなく表現されている。
そういえば成瀬の後年の「乱れる」のラストもこれと似ていた。加山雄三が自殺して高峰秀子が、同じように山道を走り続ける。あのラストは余りに唐突だったので違和感があったが、同じシチュエーションでもサイレントだとこの突然と描写の省略が大層効果的だ。そう思うと「乱れる」のラストもなかなかだったのかと思う。
と同時に成瀬は本当はサイレントとか戦前の風俗が本当はあっていた人間だという気もしてしまう。実際、私が見た限りでは、一般的に名作とされる戦後の成瀬作品よりも、戦前や戦中の成瀬映画の方が何十倍も素晴らしいのだ。
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2012年09月27日

黒澤明「夢」



古い話だが黒澤明が亡くなった頃、テレビ朝日の「日曜洋画劇場」では淀川長治が解説をしていて、毎週のように「さよなら、さよなら」とやっていた。(ちなみに、アレは「さいなら、さいなら」と聞こえたが本人はちゃんと「さよなら」と言っていると弁明していた。)
その日曜洋画劇場で、黒澤明追悼をやった際に放映していたのが確かこの「夢」だった。
どういう基準で選ばれたのか、淀川自身が選んだのかは不明だ。ただ、とにかくモノクロ時代の名作群でもなく、カンヌで賞をもらった「影武者」でもなく、それほど評価されているわけでもないこれが選ばれた。
黒澤映画はどれも長いのでテレビ向きではなくて放送できないものが多かったのかもしれないが、私は何となく勝手にこれを選んだ淀川の映画に対する鑑賞眼、見識のようなものを感じたのである。
淀川は大変映画の趣味の高い人で、多分本音では現代映画よりサイレント時代の世界の名作が好きだったような気がする。私も淀川推薦のサイレントを次々に観て勉強したクチだ。
そして、この「夢」の独特な映像美が淀川の眼鏡にかなったのではないただろうか。黒澤の映像作家としての質の高さを、この映画を選択する事で主張したかったのではないか、私は当時もボンヤリとそんな事を考えていた。勿論、実際の事全く分からず私の勝手な妄想に過ぎないのだが。
その淀川が黒澤と対談した際に、「影武者」で仲代達矢が見る夢の色彩が面白いというと、黒澤が「ぼくはね、すごい強烈な色の夢ばかり見るんですよ」と答えている。
これを読んで私はハッとした。いや、ほとんど頓悟に近いショックを受けた。
黒澤のカラー作品の色彩感覚というのは実に独特である。「でですかでん」から、この「夢」を経て「まあだだよ」に至るまで。
私は黒澤のような大家に対して今まで言うのを遠慮していたのだが、ハッキリ言って黒澤の色彩センスは決して趣味が良くない。現実にある色よりも何かどぎつくて色が強すぎるのだ。
普通の日本人の繊細な感覚からいうと、本当に品の良い美しさとはいいかねるところがある。
二人の対談で話題になった「影武者」の夢にしても、かなり毒々しい色彩に彩られていた。淀川はそれを面白いというが、正直に言うと私は色彩センスがないと思った。
しかし、それは恐らく黒澤の夢に出てくる色彩そのまま(あるいはそれを再現したもの)なのだろう。つまり、黒澤が頭で選んだ色ではなく、黒澤自身のほとんど生理的な感覚による色彩なのである。
私は、そういう色彩センスに不満を持ちつつも、「どですかでん」の不思議な原色強調など黒澤後期の不思議な現実感に惹かれてきた。それを、今まで書いてきた記事でも何度も「リアルな夢」と呼んでいる。なぜか分からないけれども、心のひだにひっかかってくる映像の色彩と感覚なのだ。
その理由が今となっては分かる。それは、黒澤の本当に正直で個人的なイマジネーション、色をそのまま絵にしているからだ。だから、不思議な説得力が映像にある。
そう考えると、次々に黒澤のカラー映像が頭に浮かぶ。「どですかでん」の乞食父子の空想する家のシーンも、妙に色が強すぎる。「八月の狂詩曲」で、原爆のピカの目を遠景の山に重ねて映像化しているところでも色が不自然だが妙にリアルだ。「まあだだよ」のラストで内田百閧フ少年時代の夢に出で来るあの妙な色彩の雲もそうだ。
いや、私が記事で酷評してしまった「影武者」と「乱」にしてもそうだ。「影武者」冒頭の三人のシーンの変な色彩と雰囲気、最初の方に出で来る不自然な夕焼け、そして夢の色彩。「乱」の白が燃えるシーンの非現実的などぎつさ、戦いに倒れた人間を描写するどぎつい色の使い方、ラストの鶴丸を遠景で映し出す美しいが不自然なところのある色彩。
私は、この二つを時代劇として捉えていたので、それにはあの黒澤の変な色彩感覚があわずに気にいらなかった。でも、あれが黒澤の生来的な感覚によるものだと考えると納得できる。
それらは、多分全部黒澤の夢に出で来る個人的な色彩なのだろう。そして、それらの映像の色彩感やリアルさは、現実にはないのだが現実以上にリアルなのである。
黒澤の映画作家としてのイマジネーションの秘密、本質はここらへんにあそうな気がする。つまり、彼は現実上に切実でリアルな想像の世界を本当に「観て」いた。空想するのではなく、実際にあるように夢などで体感していた。その感覚が全て映画に注ぎ込まれている。だから、我々はこれだけ黒澤の映像に動かされる。
黒澤は、恐らく(誤解を招きかねない表現だが)霊視者だったのであり、我々に見えない何かが、まるで現実のように「見えて」いた。そして、この映画の「赤富士」が予言的で驚かされるのも、恐らく単なる偶然の一致ではない。
そして、この「夢」は、なにしろ最初から夢と宣言してしまっているのだ。だから、現実とは違った色彩や感覚であっても構わない、どころかそれが求められる。
この「夢」の映像にしても、昔から私の評価は両義的だった。不思議な美しさとリアルさはあるのだが、本当に趣味のよい美しさでは決してない。でも、映像に説得力があるので許してしまう。そういうことも、今述べた事を考えると全て解決する。これは、黒澤の夢のまま色彩だし、この世の現実以上に切実な或る現実の物語なのである。

1、日照り雨

黒澤得意の「雨」のシーンで始まる。森の中の狐の嫁入りの行列の様式感は能である。それがいいのだが、同時にここからして黒澤独特の変でリアルな色彩感覚である。
倍賞美津子のこわそうな母親の感じがとてもいい。そして、語ともが森に再び森に向かう際の花畑と虹の、少しどきつい色彩。これが黒澤の色だ。現実とは違う現実の色。

2、桃畑

いきなり部屋が紫や赤に彩色されていて「夢」であることを暗示している。ここでの色彩感も黒澤流の不自然なリアルさ。
そして桃畑の人形の化身たちの色も強烈で美しくも気味が悪い。

3、雪あらし

「乱」でも素晴らしい演技をみせていた原田美枝子が雪女で登場する。両方とも何ともすごい役である。恐ろしくも美しい。黒澤映画で存分に魅力を発揮できる女優は少ないけれども、原節子、山田五十鈴、根岸明美 、上原美佐、そしてこの原田美枝子といったあたりが素晴らしかった。
どの女優も普通の「女」というよりは、強烈な生命感を有する女たちである。黒澤の女性の好みなのだろうか。

4、トンネル

いきなり登場する野犬に彩色されている赤がどぎつい。これが黒澤の色で、凶暴な犬のオーラの色である。
野口一等兵として頭師佳孝が登場する。亡霊で白塗りされているので、クレジットを見ないと分からないのだが。「赤ひげ」の天才子役が、ここでも実に巧みな演技をみせてくれている。
そして、彼同様に自分の死を認め認識できていない日本兵たち。戦争を知らない私でもこのイメージは強烈で切ない。寺尾聰が、必死に死を悟らせようとするところは素直に心を打たれる。
ちなみに、このトンネルのシーンでは黒澤映画史上最長の十数分のワンシーン長回しをしている。

5、鴉

この映画のエピソードはどれもいいのだが、これだけはどうだろう。
ゴッホの有名な吊橋をセットでつくってしまっている。そして、ゴッホ役のマーティン・スコセッシの大根ぶりにまずビックリ仰天する。ゴッホの描き方も、あまりに通俗的過ぎる。
そしてしゃにむに働く機関車のようにというと、何とそのまま機関車のイメージ映像が挿入される。
さらに、ついにはゴッホの名画の中を寺尾聰が歩き出すのだ。バックにはアシュケナージを真似して演奏したというショパンの「雨だれ」。
最後は「烏のいる風景」の烏をコンピューター合成で本当に飛ばしてしまう。
なんという通俗だろう。これは何かのシャレなのだろうかと言いたくなる。
でも、このどぎつい色彩感は確かに黒澤のものだ。こんなつまらないエピソードより、黒澤がゴッホのあの色彩に何を感じていたのかが知りたくなるところだ。

6、赤冨士

このエピソードは311の後でかなり話題になった。富士山の近くにある東海地区の原子力発電所が次々に爆発するという設定である。
逃げ惑う人々と、爆発で無気味な赤色に染まる富士、このどぎつい色彩感が黒澤の個性である。
人間は、放射能物質に色彩をつけるという発明をする。原発技術者役の井川比佐志が冷静に次々に説明する。
「あの赤いのはプルトニウム239、あれを吸い込むと2000分の1グラムでも癌になる、黄色いのはストロンチウム90、あれが体内に入ると骨髄にたまり白血病になる、紫色のはセシウム137、生殖腺に集まり遺伝子が突然変異を起こす。つまりどんな子供が生まれるか分からない。」
この映画は1980年に公開なのだ。どれだけの人が、当時こういう元素を知っていただろう。こんなにこれらの元素が現在有名になると予測できただろう。
井川が苦しんで死ぬのはゴメンだと自殺しようとするのを見て赤ん坊の母親役の根岸季衣が叫ぶ。
「そりゃあ、大人は十分生きたんだから死んだっていいよ。でも。この子たちはまだいくらも生きちゃいないんだよ。
でもね、原発は安全だ、危険などは操作のミスで、原発そのものに危険はない、絶対にミスはおかさないから、問題はないってぬかした奴ら、許せない。あいつら、みなに縛り首にしなきゃ、死んだって死にきれないよ。」
黒澤は専門家に聞いて、もし本当にこのような事故が発生したら中国まで逃げないと安全ではないと知って、これをつくったそうである。
これも、恐らく黒澤が実際に観た夢なのだろう。そして、こういう鮮やかな色彩で。
「生きものの記録」の原爆恐怖症の老人は、まさしく黒澤自身だ。それは理屈のレベルではないのだ、原爆への恐怖や原発への不安は、実に当たり前でまっとうな感覚である。
しかし、黒澤のようなリアルなイマジネーションがない人間は理屈で自分を無理に納得させてしまう。実に不幸な事だ。

7、鬼哭

原発事故、あるいは原子爆弾戦争後の世界である。死の灰で染色体の異常を起こした、巨大で気味の悪いタンポポが咲き誇っている。そのどぎつい色彩が黒澤的である。
その世界に住むのはもはや人間ではない。本当に角のはえた鬼である。
いかりや長介の演技は本当に見事である。後期黒澤では、こういう見事な素人と本当にダメな素人や新人の差が激しい。「まあだだよ」の所ジョージも自然でよかった。いかりやも所もコメディアンなのは偶然なのだろうか。
鬼は、角の数が違い角の多い鬼ほど、昔の世界で威張っていた人間たちである。角の多いほど強い。お互いに食い合って命をつないでいる。
しかし、鬼たちは決して死ぬ事ができない。そして、夕方になると角が痛んで激しい苦しみにのたうち回る。鬼たちが苦しんでのたうちまわる映像は地獄絵図である。
311の原発事故の後にも、相変わらず角のたくさんはえた鬼たちが権力を握って威張り散らしている。それが、現代の最大のコメディだ。
しかもその鬼たちは自分たちの頭に角が生えている事にも全く気づいてないし、角が痛む事もなくのうのうと生き続けている。

8、水車のある村

一転して美しい桃源郷である。水と水車が美しい。
笠智衆の老人が素晴らしい。彼の口を借りて、黒澤が現代文明批判をしている。黒澤らしく当たり前のことを当たり前に言っている。
しかし、そんなことよりも大事なのはこのエピソードの陽気なイメージと素朴な生命肯定である。
死は本来めでたいものだと言った上で笠智衆が言う。
「あんた、生きるのが苦しいとかつらいとか言うけれど、それは人間の気取りでね、正直生きてるのはいいもんだよ。とても、おもしろい。」
死んだ婆さんは私の昔の恋人だったといって、「男はつらいよ」でおなじみの御前様のハッハッハッ笑いも披露している。
その葬式の行列のところの躍動感が素晴らしい。「隠し砦の三悪人」の火祭り並みの活気である。しかも見事なカラーがついている。
笠智衆も赤の衣装に着替え、行列も黒澤らしい鮮やかな彩りに満ちている。しかし、ここでの色は決して不自然ではない。
黒沢にとっては、夢の中での色彩はどぎつくて不自然だったが、この現実の世界のそのままの色彩こそ、本当に美しいものだったのかもしれない。
最後は川の水の流れを静かに映し出して映画はおわる。ここでの水は、まるでタルコフスキー映画の水のように澄みきっている。
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2012年09月26日

黒澤明「影武者」



今回WOWOWで黒澤全作品を改めて見て、黒澤明の映画もその人間も本当に素晴らしいと思った。だから、もう黒澤映画の悪口など言いたくはない。
でも、「乱」の時に書いたように、この「影武者」と「乱」だけは、やはり黒澤の名誉になるものとはどうしても思えないのだ。
いや、別に理屈で評価しているのではなくて、少なくとも私は退屈して現実に眠りそうになってしまった。
演出方法で、かつての黒澤流の過激な表現主義が失われて、妙に重々しい古典的な演出になっている。私はモノクロ時代のなりふりかまわない黒澤演出を愛してやまないので、こういう妙に取り澄ました演出が残念だ。高級大河ドラマ風とでもいうか。
映像自体についても、美しい事は美しいのだが、本当の黒澤の個性と言うよりは「きれい」な映像にとどまっていると思う。
でも、後期のカラーでは「どですかでん」「デルス・ウザーラ」「夢」「八月の狂詩曲」「まあだだよ」は好きだ。それらには黒澤らしい個性があるから。黒澤には、彼固有の独特なイマジネーションがあって、それがきちんと映像化されていた。
ところが、「影武者」や「乱」の映像の「美しさ」は、表面的にはきれいだけれどもそれだけなのだ。観るものの心に訴えかけてこない。
黒澤はもともと画家志望だった。そして後期のカラー作品では、画家としての表現を目指していたところが明らかに伺える。しかし、この「影武者」では画家が小奇麗な絵を描ことしすぎているのではないだろうか。黒澤は勿論偉大な映像作家だけれども、珍しくその悪いところが、「影武者」や「乱」では出てしまっていると思う。。
彼の他の後期のカラー作品も、決して画家の絵としても超一流ではないかもしれないけれど、そんなことより黒澤独特の感性、夢見る能力はちゃんと表現されている。だから、それらの作品を私は愛している。個人としての固有な資質の何かが映像として存分に表現されていれば、それは見るもののを動かし心に訴えかけてくるから。
ところが、この「影武者」では普遍的で古典的な美や完成度を目指しているので、それがかえって映像に心に訴える力がないように少なくとも私は感じる。
最後の戦場の馬などのスローモーションも、作者が劇的な効果を狙っていることを観るものはどうしても感じてしまう。そして、それがモノクロ時代の黒澤のような有無をいわせない説得力がないので、感動を強いられているような気がしてしまうのだ。
この「影武者」と「乱」で黒澤はあまりにも「立派で美しい」映画をつくろうとしすぎてしまったのではないだろうか。
何も考えずに見ている観衆も、そういうことには実はたいへん敏感である。よく見せようと力むほど、見る人間の心は離れていってしまう。
モノクロ時代の黒澤は、もう無我夢中でよく見せようなどと言う事など全く考えずに無心で映画を撮っていた。だから、あれだけの説得力を映画が生む。「白痴」などは、夢中で作りすぎて、不評だったり理解されなかったが、私はあれが黒澤の最高傑作だと信じている。あのなりふりかまわないテンションの高さと忘我がたまらなく好きなのだ。
後期の他のカラーでも、少し黒澤の自我を感じさせるにしても、基本的には無心に好きに映画をつくっている。だから、私はそれらの映画も好きだ。
「乱」ではそれでも黒澤らしい活気が感じられる場面も多々あったけれど、この「影武者」にはそういう部分も残念ながら欠けているように感じてしまう。
この映画は、公開当時から日本人の評者には評価されなかった。凄く良く分かる。それは理屈ではなく、この映画から受ける率直な感想だと思う。
「大系 黒澤明」第三巻の「影武者」の章には、松本清張が当時書いた「影武者批判」も収録されている。松本らしく、具体的な史実
に即して言っているのだけれど、基本的には映画をみて退屈だと思った印象が根底、基本にあるように思えた。それを具体的に説明しようとして色々書いているが、多分素直な感覚がまずあったのだと思う。松本は元々黒澤映画の大ファンだと断った上で批判している。
私は天邪鬼なので、今回はなんとか「影武者」のいいところを見つけようと思ってみていたが、結局眠たくなってしまった。
しかし、「大系 黒澤明」の中で、黒澤と対談した淀川長治はこの映画を擁護している。淀川は「さよなら」のおじさんとして有名だが、無論映画に対する鑑賞眼は本物だ。「影武者」の悪口ばかり書いていて後味が悪いので、淀川に敬意を表して最後にその発言を要約して紹介しておこう。こういうプロの見方もあるということで。
・長篠の合戦で馬が倒れていくところはよかった。あの馬がしつこくしつこく倒れるところに戦争の哀れさを感じた。
・影武者の見る夢に、黒澤らしい色を感じた。グレーじゃなくて強烈な色で。あの色は面白かった。
・勝頼と部下が二人で喋っているシーンがよかった。セットがいいと思っていると、その向こうの窓をパッと開ける、すると雪が降っている。こういうのが映画であって、なぜこういうところを褒めないのか。
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2012年09月25日

黒澤明「デルス・ウザーラ」



夜中にソ連の探検隊が焚き火をしていると、遠くで物音が聞こえる。何事かと緊張して身構える兵隊たち。
すると、「人間だ、撃つな!」という声が聞こえて、暗闇の中からデルス・ウザーラが現れてきて真っ直ぐ歩いてきて焚き火の側に座る。
という感じで、デルス・ウザーラが登場するのだが、その風雪に耐えた実に味のある顔、醸し出す穏やかで澄んだオーラに、いきなり魅了される観ているものはデルスのことがたちまち好きになる。
このマクシム・ムンズクの演じるデルス・ウザーラが本当に役なのか本人なのか分からないくらいピタリとはまっている。このデルスが画面に映っているだけで幸せという映画だ。
当然、日本の映画では三船などの俳優が役をも演じていてそれを程度の差はあっても意識するわけだが、 それがこの映画ではない。当初、黒澤はデルスを三船にやらせる予定だったそうだが、この場合はしなくて良かったと思う。それくらい、このマクシム・ムンズクは素晴らしい。
このマクシム・ムンズクという人、実際にデルスのような生活も経験したことがあり、当時は無名な俳優をしていた。当初はソ連の有名俳優も候補に上がったが、黒澤の眼鏡にかなわず結局無名な彼が抜擢された。役者としてというよりは、あの外見と雰囲気が誰しもデルスにピッタリだと思ったのだ。
但し、本人は役者としてかなり大袈裟な演技をするくせがついていたらしい。だから、黒澤はそういう演技を一切しないで自然にやるようなに何度何度も説明したそうである。地のマクシムが求められ、そして出来上がった映像には自然なマクシム=デルスが見事に映っている。
アルセーニエフのユーリー・ソローミンも大変感じのいい役者で、彼とデルスの友情をとても素直に受け止める事が出来る。第一部の、「デルス」「カピタン」と呼びあうところは素朴きわまる演出だけれども、観ていてついグッときてしまう。第二部の二人の再会のシーンもそうだ。
ロシアの大自然の中でのロケで、本当に環境が苛酷でさすがの黒澤も自然条件に応じて撮影の仕方を適応させたそうである。日本のように、望む天気を待ったりしていたら本当に危険だったという。さすがの黒澤もロシアの自然には勝てなかった。
それとこの映画にはアップがないが、それについては「アップは35ミリだったらおかしくないけど、70ミリのアップなんて、気持悪いよ、おかしいよ。」と述べている。
第一部では、デルスと隊長が遭難するシーンが圧巻である。あの二人が必死に草を刈るシーンはなんと十日間もかけて撮影したそうだ。そして、二人とも疲労困憊してひっくりかえるのでカメラを回したという。ソ連の俳優も黒澤演出の洗礼を受けたというわけである。しかし、そのせいで出来上がった映像は本当に迫力満点である。
そして、吹雪についてもそれを待てないので飛行機で飛ばしたそうである。ここでもデルスと隊長はヒドイ目にあわされている。どんなに頑張っても5分が限度だったとか。
デルスが川で流されて木につかまるシーンは、スタントを使おうとしたら、マクシム・ムンズクが自分でと言い張ってやったそうである。当時でもかなり高齢なのだがもやはり役者自身がちょっとデルス的なある人間で、それであれだけリアルな感じを出せたのだろう。
屋外ロケの部分はどれも本当に素晴らしいが、最後の町のシーンとデルスの死に方は映画の締めとしては残念な感じである。これは原作の小説の通りに忠実に構成したのだろうか。ただ、デルスには自然の中で(例えば誰かの命を救って自分を犠牲にする)といった死なせ方をさせてあげたかった。
「どですかでん」が興行的にこけて、その5年後にソ連の資金を借りてつくった映画だけれども、この映画は普通に素晴らしい。大規模なロケを統率する黒澤の力は、やはりすごいし、映像のもつ力も役者の魅力も十分。ソ連製というだけであって、立派な黒澤映画である。
この映画などを観ていると、黒澤がこの頃に好きなように映画をつくれなかったのは日本内の映画界をとりまく状況が問題だったのであって、実はまだまだこの頃の黒澤は創作力に溢れていたような気もする。
デルス・ウザーラは、いかにも黒澤的な登場人物だ。心がキレイで純粋な人間。様々なバリエーションで現れながら、黒澤映画を一貫するテーマである。
そして、ここでは自然と離れていない人間、動物や自然を人間と同等の「いきもの」と考えている人間がテーマである。難しいテーマだけれども、デルスが大変魅力的なので、素直にその問題を受け入れる事が出来る。
デルスは素朴な人間で、文明的な知識はないが、自然や人間自体に対する深い智慧や洞察がある。それもきわめて具体的な形で。
この黒澤の問題提起自体が大変素朴なのだが、現代を生きる我々はその問題点の重要性にハッと気づかされる。
黒澤映画は常にそうだ、あまりに当たり前のことを当たり前に主張している。その素朴さを決してバカにして笑えないことに、ようやく我々は理屈ではなく身をもって気づかされつつある、あるいは気づかずにはいられない時代を生きている。

(文中で紹介したエピソードについては、「大系 黒澤明」第三巻のデルス・ウザーラの部分を参照しました。)
posted by rukert | 映画